黄檗山
頭陀袋029 薬王山大寧寺住職、五島海南和尚を訪ねて
平成二十六年十月十八日、関市迫間、正渓寺を訪問した帰りに、美濃太田の大寧寺に住職、海南和尚を訪ねた。庫裏には人の気配はないが書斎の窓は開けたままで日当たりのいい場所にはむしろにたくさんの銀杏が干してある。隣接する水屋のほうに回ってみると和尚が六十代と思われる女性と銀杏の果肉をとるために洗濯機を回しながら作業中であった。
(以下、恩:恩林寺住職 大:大寧寺住職)
恩:和尚さん。こんにちは。高山の恩林寺です。だいぶ耳が遠いらしく大きな声で声をかけると、
大:おやまあ。久しぶりやねえ。よう来てくれやした。さあさあ、ちょっとやすんでいかんかね。
恩:今日は正渓寺さんまで来たもんで、ちょっとおっ様の顔が見たくなって、寄らせてもらいました。
大:ほうかね。こんなとこで、黄檗のボンさんに会えるなんて、ありがたいことですな。わしも、もう、ええとしやで、だーれもあいてにせん。
恩:和尚さんはうちのおやじと同参とか聞いてましたが、何年生まれですか?
大:うん、儂は、あと三日で、満、九十八やで。もう、耳は聞こえんし、新聞も読めんようになった。お宅さん今日は運がえかった。今度はもう会えんかもしれん。毎日がこれで終わりじゃとおもっとるんやで。ちょっとまってよ。娘がお茶持ってくるんで。今日は二番目の娘が手伝ってくれるんで、銀 杏を洗っていたとこや。
恩:しかし和尚さんお元気で何よりですな。いまもおひとりで暮して見えるのですか?
大:うん。わしの両親は本願寺の門徒さんで、そりゃもう厳しい人やった。毎朝、お仏飯を備えて、お経を読まされる。子供のうちに、阿弥陀経や正信偈はそらでおぼえてしまった。それから本願寺の寺の小僧に出て、十年暮したね。旧制中学出たらすぐにおやじは、お前は大寧寺へ行け。というので、大寧寺の小僧にしてもらって、それから黄檗山の禅堂に入った。当時は厳しい修行が待っておって、苦労したねえ。
恩:和尚さんは品ヶ瀬全提さんと同参とか?
大:エッエッ?どうして全提さんしっとるの?
恩:儂のおやじと同年代ということもありますが、全提さんの弟子という尼さんと、講習会で一緒になりまして。
大:ほうかね。全提さんには親切にしてもらって、よう、面倒みてもらったね。その尼さんというのがこの寺へ訪ねてきてくれたことがありましてな。あの尼さん、途中から全提さんの弟子になって、ついに全提さんのお寺をついでくれたとか聞いたが、人間わからんもんやね。わしもこのあばら寺に八十年住職やって、檀家もないが草むしりばかりしているうちに同参も、知り合いもみんな死んでしまって、最後に残ってしまったもんやから、だーりもたずねてこーへん。しかしな、こうなるのも、偶然でなーて、自分の運命というか宿命なんてものは初めから決まっておったんや。知らんのは自分だけ。あ、ちょっと失礼、しっこがしたーなった。
すぐ目の前の柿の木めがけて ちょろちょろ…。
恩:和尚さん、しかし広い畑を管理してたいへんですね。
大:ほうや。この畑は全部昔は寺の境内やったが、くさむしりばかりするのがたいへんやで、どうせなら畑の草むしっとったほうがええで、根気にやっとるんや。この頃は あんまりほとけさんのおもりも充分でけようになって、ほうや、今年はどうにか皆さんに助けてもらって施餓鬼を、わしが導師で務めたが宝蔵寺さんとこは無住やで、やめてしまったそうや。法蔵寺はわしの遠縁やが、早う逝ってしまったしなあ。もう二十年になるかしらん。しかし、この年になるとお経も忘れてしまって、よう、出てこんでいかんわ。昔は習字の先生もしてみたけど、もう筆も持たん。字も書かん。 あ、恩林寺さん、銀杏好きなだけ持っていきゃー。この頃、銀杏の木がでこうなって、 身が小粒になってしまって、値打ちのうなっていかんわなあ。
(五島海南和尚は大正五年辰年生まれ、黄檗宗第十八教区の長老。恩林寺十二代正念和尚とともに黄檗山、関義道老師について修行、現在、数えの百歳、大寧寺の現役住職。父、正念和尚の葬儀、兄、弘文和尚の葬儀の導師を務めていただいた。以前は岐阜大学に勤務、伊深、正眼短期大学に聴講して、漢詩を得意とする。美濃太田 大寧寺に独居)
黄檗山の鐘楼、鼓楼
黄檗山では朝、五時に開静(かいじょう) 夜九時に開枕(かいちん)と言って大鐘と太鼓をもって時刻と消灯、大衆に起居、動作の始終を知らせます。また、賓客来山の時は鐘鼓交鳴して歓迎を表します。
人間は二つの耳を持つといわれています。一つは日常生活において使っている感性の耳であります。いろいろの物音を聞いてそれを知ったり、おたがいに話し合って意志の疎通をしたりしている耳であります。
二つは梵唄(ぼんぱい)、音楽等を聞く霊性の耳であります。これは同じ耳で聞くのですが、おごそかで美しい音によって、日常のそれと違った幽玄の雰囲気に入らしめてくれる耳であります。音楽は誰が聞いても美しい音であるはずですが必ずしも誰でも心に感ずるとは限りません。これにはやはり音楽に理解を持つ、持たぬということがあります。
何かの機会にこれを理解するようになると、そのひとが知らなかった一つの世界が開かれます。この私のどこか深いところに一つの霊的自己とでもいうものが潜んでいて、それが微妙な響きの中に、ふとその首をもたげ私の目をさましてくれます。 たとえば鐘の音は一つですがさまざまな思いをその人にあたえてくれます。過去の集合表象や心の底に結びついている無常感などが宗教の風光をひそかに伝えてくれます。
黄檗宗では読経の初めに香讃(こうさん、) 終わりには結讃(けっさん)、と言って唐音で節経 (メロディーのあるお経)を唱えます。
微妙の響きは、ある時は無常、無我、静寂 を運び、聞くものを無量ならしめます。
住職合掌
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頭陀袋060 売茶翁の話
黄檗山萬福寺は中国風のお寺として有名ですが隠元禅師が煎茶・番茶の習慣を伝えられ庶民の間に普及したことはあまり知られていません。
隠元禅師に付き添い日本に渡った独湛禅師は黄檗山第四代を継がれるのですが独湛禅師は隠元禅師と同じ故郷、福建省の出身であり、福建省はお茶の産地としても知られています。独湛禅師の弟子、売茶翁について触れてみたいと思います。
売茶翁は肥前蓮池(佐賀県佐賀市)の生まれ、城主鍋島家の御典医、柴山氏の三男として生まれ、十一歳で肥前龍津寺化霖について得度します。十三歳で黄檗山萬福寺に入り独湛禅師に参じました。二十二歳で陸奥に行き雷山で苦行をしたのち故郷の肥前に帰ってきました。五十七歳の時、師匠がなくなると龍津寺を法弟、大潮に譲り京都に戻ります。六十一歳の時通仙亭を開き、自ら茶道具を担い、京の大通りに喫茶店のような簡易な席を設け、禅道と世俗の融解した話をしながら客をもてなし、人の在り方、人の世の生き方などを説いたといわれています。
相国寺の和尚はその内容を書き残したらと進めたのですが、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心にあり、事跡には非ず、そも袈裟の仏徳を誇って世人の喜捨を煩わせるのはわしの持する志とは異なっておる。」と述べたという。
七十歳になり、十年に一度は故郷に帰るという約束を果たし、突然自ら還俗(坊さんを辞めて俗人に還る)。 自ら高氏を名乗り号を遊外としました。気が向かなければその日は店をしまう、というような気楽な生活でしたが貧苦の中、喫茶する人のために煎茶を売り歩く毎日でした。
八十一歳になった遊外は売茶業を廃業、愛用の茶道具すべてを燃やしてしまいました。(私の死後、この道具たちが後世の俗人たちにわたって辱められたら、道具たちも私を恨むだろう。だから、お前たちを火葬に付してやろう。)という思いであったようです。その後、揮毫(字を書く事)によって生計を立て、八十七歳で蓮華王院(三十三間堂)の南にある 幻々庵で息を引き取りました。
売茶翁を偲び 黄檗山萬福寺には売茶堂があり、煎茶に親しむ茶人によって守られております。
住職合掌
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典座(料理場)の仕事
本山である満福寺が最近、京都で有名になって、調子にのってる恩林寺の小僧です。
ある記事がインターネット上に流れました。それは萬福寺の修行僧の暴行事件として扱われました。そのニュースを見た方もいるでしょう。
実際のところ、実は寺の中にいた僕ですらその真相を知りません。あまり口外も出来ないこととなっております。
ただ1つ言えるのは、僕は何も関わっていないので、安心して欲しいということです。
また昔は、棒で打たれて喝をいれられた話があります。もし今回のことがダメであるのならば「警策(坐禅の時に和尚さんたちが叩くこと、またはその棒)」の使用はいけないこととなってしまいます。
ある僧堂では、死人が出たこともあるそうです。冬になると、警策で内出血がおこるほど叩かれることもあります。それが当たり前の世界にいるので、今回のことは大袈裟には感じておりません。
典座(料理場)の仕事を、地道に頑張っております。どうかみなさんも体調を壊さず、平和な毎日が過ごされることを、遠くからお祈りしています。
小僧合掌
頭陀袋085 施食のはじめ
あるとき、修行僧が閑静な木の下で座禅をしていました。
すると、樹の上に猿が住んでいて、僧が食事をしているのを見て自分も食べたくなり、樹から降りて僧の前までやってきました。僧は猿に残飯を与えると猿は、鉢の底まで舐めて、食べ終わると、感心なことに水辺迄行き、鉢をよく洗い僧に返しました。こうして同じように、猿に食事を与えるのが習慣になっていたある日、僧はうっかり食事を食べ残さず、鉢を空にしてしまいました。
猿は、当然施されるとばかり思っていた食べ物がないので大変怒り、僧の袈裟を奪い、樹の上でズタズタに裂いてしまいました。
これには修業の身である僧もカッとなり、杖で猿を撃つと当たりところが悪かったのか、猿は悶絶して死んでしまいました。
すると、傍に数匹の猿が寄ってきて悲しみ、死んだ猿を担いで寺まで運んでゆきました。
寺の住職は、『これは何かわけがあるのだろう。』と思い、修行の僧を集めて、誰かその理由を知らないか尋ねたところ、誤って猿を殺した僧が前に出て正直に詳細を述べると、その後、食事の時はその一部を取りおいて動物や虫に施すようにした、と言います。
禅宗のお寺ではこれを、生飯『サバ』と申します。
黄檗山萬福寺を開いた隠元禅師は鳥や動物をかわいがる方で、寺に集まってくる鳥に餌を買い与えたり、また境内に『生飯台(さばだい)』という餌台を設け、雲水や、自分たち山内のお坊さんたちが自分たちに備わった食事の中から少しずつ取り分けてあたえるようにしました。
こうして、現在までこのしきたりは続けられております。
頭陀袋によせて (読者様からのおたより)
毎月のお届けありがとうございます。開けて読むと毎回、驚きです。
私の心の中をずっと見ていたかのようにその答えがいつも書いてあるのです。
全部が実行できるような私ではありませんが、一つでも心の中に止めておいてプラスに考えるようにしています。
六十年生きてきた私ですが、読むたびに『なるほど』と、思うばかりです。何のお返しもせずお届けいただくばかりですが、これからも毎月、楽しみにしていますのでよろしくお願いいたします。
(飛騨市古川町 I・T様)
コメントありがとうございます。
住職合掌
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萬福寺の紫陽花が咲きました。
六月も終わったというのに紫陽花を見て喜んでる、恩林寺の小僧です。
萬福寺の紫陽花が咲きました。最近梅雨に入り、台風も出来て雨もたくさん降っておりますね。
季節の変わり目がきて、暑い暑い夏が始まろうとしています。
そんな時を知らせる紫陽花ですが、よく見てみると一つ一つ小さい花がたくさん付いて一つの大きな花になっています。それを見るといつも「自分は1人じゃない」と思い出されます。たくさんの人の支えがあり、一つの大きなことを成すことが出来る。たくさんの人のおかげで今ここに自分が存在できる。
1人でも欠けていたら、その紫陽花は綺麗に見えません。色のない穴があり不自然となってしまいます。僕もその紫陽花の1人。周りの人に支えられている分、しっかりと小さな花を精一杯咲かせて、みんなを支えられたらいいな。
そのために今自分に出来ることを頑張っていきたいと思います。
7月になり、2019年も半分を超えました。今年の目標を振り返ってみるのもいいでしょう。
ついでに僕はほとんど目標を達成しておりません。
今年中にはちゃんと夢を叶えるためやることを一つ一つこなしていきます!頑張ります!
小僧合掌
10.中国の黄檗山へ登る
かつて費隠老和尚のもとでお目にかかったことのある隠元老和尚が黄檗山で住持されていました。
禅師は黄檗山に登って足をとどめられました。
ある日、
「燃えさかる焔のなかに身を横たえる、そうした場合についてお教え下さい」
とお願いされますと、老和尚はやにわに一棒をくらわされました。禅師がひるまず、
「もし仏を超え祖師を越えるような優れた人に出会った時にはどうしたものでしょうか」
と問われますと、老和尚は、
「きっと皆なが手を差しのべて喜び迎えることだろう」
と言われましたので、禅師は、
「そうでしたなら、この黄檗山を囲む十二峰の峰々も皆な頭を下げてうなづくことでしょう」
と答えられました。
放生ならぬ養生
紅葉に見とれて階段を踏み外した、恩林寺の小僧です。
以前のブログでは恩林寺の紅葉を紹介しましたが、今回は本山萬福寺の紅葉もお見せします
どうでしょう?綺麗でしょうか?
この池の名前は、放生池。生き物が長生きできますようにと、鯉を放流していました。
今は衛生管理の問題もあり、生き物はおらず花だけのようです。
そんな綺麗な写真を載せる小僧は風邪をひきました
放生ならぬ養生しております
久しぶりに38.4℃という記録的な熱…咳と共に大変な状況にありました。
身体のだるさはおさまり、なんとかなりましたが、咳だけは厄介で、未だにゴホゴホ状態です。
寮の近くにある池の紅葉を楽しみながら、これからも頑張っていこうと思います。
小僧合掌
次回休載のお知らせ
12月1日~8日は、臘八大接心です。
12月1日~8日は、萬福寺にて臘八大接心が行われますので、休載致します。
次回は12月9日掲載予定ですが、12月8日に成道会が萬福寺にて執り行われますので、
通常より遅くなることが予想されます。ご了承ください。
小僧合掌
臘八大摂心とは
お釈迦様が悟りを開かれた12月7日まで同じような体験(修行)することから生まれました。
1週間、坐禅をして、自己を見つめ直します。
15.日本黄檗山の開創
恙なく大阪に着かれますと、隠元老和尚はたいそう喜こばれ、その冬の修行期には修行僧たちの首席とされ、また老和尚に代って説法させられました。
明る年の二月に入ると、禅師は老和尚のお伴をされて、新しく日本に開創される黄檗山の基地を見て回るため、京都府宇治太和村に出かけられました。
寛文元年五月八日、黄檗山萬福寺が開創され、八月二十九日には老和尚が黄檗山に登られました。
翌年には広さ十一間(一間は一・八六六m)深さ十間の法堂の上棟式が挙げられ、范道生によって観音、韋駄天、伽藍、祖師、監斎等の像が造られました。
明けて寛文三年、祝国開堂の式が行なわれ、幕府から僧糧として四百石が贈られました。禅師が老和尚をお助けして盡力されたことは言うまでもありません。
東西の両方丈が建ちますと、老和尚は東方丈へ、禅師は西方丈に住まわれました。
18.大雄宝殿建つ
寛文七年五月、将軍家から二万両と南海地方の木材チークが下賜され、仏殿を建てることになりました。
青木甲斐守が、黄檗山内に不二庵を新築してここに住まわれ、工事の監督にあたられました。
翌年、大雄宝殿(仏殿)の建築にとりかかり、三月二十五日棟上げ式があり、禅師は香を焼いて祈られました。広さ十三間、深さ十一間というすこぶる大きな伽藍でした。
つづいて天王殿、斎堂(食堂)、鐘楼、伽藍堂、祖師堂も次々に建てられました。
十二月八日、これらの建物もほぼ竣工しましたので七日間の法要を行ない、上堂説法して感謝の情を披瀝されました。
また明る年の三月、江戸へ下って建物が目出度く竣工したお礼を幕府に言上されました。
江戸では黄檗山開創に大功のあった大老酒井空印大居士の法要をすまされ、老中稲葉公を始め諸大名の私邸 招かれて説法されましたので、一ヶ月余り江戸に滞在されました。