鉄牛禅師
頭陀袋056 黄檗の僧、了然(りょうねん)尼の逸話
了然尼は幼名を『ふさ』と言いました。
京都の富豪・屑山為久の長女として生まれ、東福門院の孫に仕えたといわれています。十七歳で医師に嫁いだのですが、結婚に際し、子供が三人で出来たなら離婚することを条件にされていたようです。そうして二十七歳の時に離婚し、出家後は了然と名乗り、後水尾天皇の皇女、宝鏡寺の宮(久巌禅尼)のもとで尼僧の修行をされました。三十三歳の時、江戸に赴き、 最初黄檗僧として著名な鉄牛禅師に弟子入りを乞われたのですが、鉄牛禅師はその美貌のため、断じて入門を認めませんでした。やむなく了然尼は鉄牛禅師と同門の白翁道泰禅師を訪れ入門を懇願されましたが、白翁禅師も同様に「尼僧の容姿の美しいのは仏道修行の妨げになる。」として、またしても拒絶されてしまいました。
途方に暮れた了然尼は門前の民家でやすんでいるとき、妻女が使用している火のしこてが目に入りすぐさまそれで自分の頬を焼き、醜い顔になりました。その後、さっそく自作の詩と和歌とをつくり、焼けただれた顔で白翁禅師に再度入門を懇願されたといわれています。
禅尼の詩
昔宮裏に遊んで蘭麝を焼く今、禅林に入って面皮を焼く
四序の流亦斯くのごとし 知らず誰か是れ箇の中に移ることを。
〈大意)昔は宮中でお香をたいていたが今 はこうしてわが頬を焼いている。 四季の移り変わりとはこのようなものだ。 誰もが一時、一時の変転の中にいるのだ。
和歌
生きる世に捨て焼く身や終ひの 薪とおもわざりせば。
とうとう白翁禅師も根負けされ、了然尼の入門を認められ、黄檗僧、了然総尼がここに誕生しました。
了然尼は五年の修行の後、白翁禅師の法を継がれました(免許皆伝)が、それを見届けるように白翁禅師は示寂(なくなる)されたそうです。了然尼は師匠の恩義に報い泰雲寺というお寺を建立し、六十六歳まで生きながらえ、たくさんの書画を残されております。
住職合掌
実際の頭陀袋はこちらです。
14.長崎の二甘露門
禅師と即非和尚とは殊に仲が良く、お互いに詩偈を作りあったり、舟で沖に出て語りあったり、福済寺と崇福寺を相互いに訪れあったりされました。
また、お二人で盛んに禅の教化にしたので、長崎の人たちは二人を仏教界の二甘露門と稱んで崇めていました。
甘露というのは、人びとの苦悩を去り、長寿を保ち、死者を復活させるという、甘味の霊液のことで、この二人の禅僧こそ、そういった甘露の法を人びとに説かれる方だと信じ仰いでいたからです。
秋になりますと、鉄牛和尚が隠元老和尚の書と竜渓和尚の手紙を持参して、木庵禅師に普門寺へ上るように伝えられました。
禅師は辞衆上堂(住持を退いて弟子たちと別れるに当っての最後の説法)を行なって長崎を発たれました。
小倉では藩主の小笠原公がわざわざお迎えに出られました。
17.江戸へ下られる
寛文五年春、木庵禅師によって三壇戒会(当時、黄檗の独特な授戒の式)が開かれました。
これを機に甘露堂が東方丈の後方に創建され、禅堂の修覆、石畳を敷いた道路、二つの倉庫などが建てられました。
七月二十日、幕府から呼び出しありましたので、初めて江戸へ下られ、黄檗山住持になられたごあいさつを述べられました。途中浜松では法弟の独湛和尚を訪ねられ、江戸に着かれてからは天沢寺を宿泊所とされました。
禅師が江戸に出て来られたという評判がたちますと、多くの人たちが、一目でもよいから禅師にお会いしようと押しかけました。
江戸城に入られてから老中稲葉美濃守、将軍の生母桂晶院太夫人などに法語を書いて示されました。
九月二十八日、二度目の登城をすませ帰途に着かれました。小田原では鉄牛和尚にお会いになって、無事黄檗山に帰られました。
19.江戸の瑞聖寺
関東地方での黄檗宗の教線は日に日に拡がり、上野に萬徳山広済寺が潮音和尚によって建てられ、また江戸に紫雲山瑞聖寺が鉄牛和尚を住寺として迎えました。
寛文十一年四月、瑞聖寺の伽藍が竣工したのを機に、かねてから心にかけられておられた紫衣下賜へのお礼もかねて江戸へ旅立たれました。五月九日、無事瑞聖寺に入られ、進山式を挙げられました。
参詣者は引きもきらず一日一万人といわれました。
また禅師が江戸に出てこられたというので、酒井雅楽頭を始め幕府の高官たちがお斎(ご馳走の宴)を設けて次々に禅師を邸に招ねかれました。この時、鉄牛和尚を首座に、潮音和尚を西堂に迎え瑞聖寺で坐禅会が催されました。
たまたま法弟の即非和尚が亡くなられた報せがもたらされました。禅師はいたく悲しまれ位牌を設けて法要をいとなまれました。