法句経
頭陀袋057 おのれの主
おのれこそおのれの主。
おのれこそおのれの頼りである。だから何よりもまず、おのれをおさえなければならない。
私たちはしばしば自分を見失います。解っていながらじぶんではどうしようもなくなるのです。その理由は様々です。「あいつに負けた。悔しい。」などということはよくあります。(金や地位を失ってこれからどう生きようか)と、絶望することもあるでしょう。希望通りに運ばないこともよくあります。病気も、失恋も人生における大きな心の傷となります。
平成二十年東京の秋葉原で通り魔事件が起こりました。犯人の青年は秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ後ナイフで凶行に及び、十七人の死傷者を出しました。 通り魔事件としては史上最悪の事件と言われています。その青年は「思い通りにいかないことがあって誰にも話せない。だれでもいいから構ってほしかった。」と 述べております。やったことはもちろん許されないことですがこの思いは社会に疎外された現代の若者に共通しているの かもしれません。
<p>しかし思い通りにならないと思うのは自分の自我に振り回されているからです。その自我が「ないものねだり」をし、[限りなくねだる。]からいつも欲求不満に苦しむのです。これは私たちの性と言ってもいいでしょう。傷ついた心はいやさねばなりません。そして空腹になったらじぶんで食事をするしかないように、心が傷ついたら自分自身で癒すしかないのです。こればかりは他人 ねだって頼むことはできません。自我や欲望を整えることにつながるのです。
おのれこそはおのれの主(あるじ) おのれこそはおのれの頼りである。
だから、なによりもまず おのれを抑えなければならない
「パーリ法句経より」
住職合掌
実際の頭陀袋はこちらです。
頭陀袋058 諸惡莫作 衆善奉行 自淨其意 是諸佛敎
諸惡莫作 しょあくまくさ 衆善奉行 しゅぜんぶぎょう
自淨其意 じじょうごいぜ 是諸佛敎 ぜしょぶっきょう
中國の唐の時代の詩人、白楽天はあるとき有名な禅宗の高僧を訪ねました。
「和尚様。仏の教えとは、つまりどのようなものでしょうか。」
「悪いことをするな。よいことをせよ。ということだよ。」
「なんだ。そんな事か。そんな事なら三歳の子どもでも言えますよ。」
「三歳の子どもが正しく言えても、八十歳の老人ですら実践することができないではないか。」
「……… 」
それを聞いて白楽天は何も言えなくなりただ頭を下げるばかりでした。これは有名な禅の語録にある言葉ですが高僧が答えた仏の教えの意味は『法句経』からの引用です。学問的にはこれを七仏通戒の偈と言います。
原文ではさらに(おのおの心を清くする)と、言う言葉が続きます。白楽天は高僧があまりに単純なことをいうので少し見下したのでしょう。おごり高ぶる気持ちがあると私たちは善悪の判断が鈍り、日頃からほんの少しでも心を清くするような生き方ができていればそうしたおごり高ぶる心は自然と小さくなり、きえていくはずです。
高慢な気持ちを起こさない為にはまず、相手の立場になって考えてみることです。そうするとおそらくいろいろなことに気ずくはずです。生かされている自分に感謝をこめ、心清らかに明るく楽しい生活 を送りましょう。それが仏陀の思いでもあり教えでもあります。
渡来観音のいわれ
昭和四十年頃、中国は文化大革命と言って毛主席が中国の政治に大改革を進めました。中国は、従来からの伝統を否定し、新しく生まれ変わるというものでした。この文化大革命によって、伝統ある寺院や宗教関係の建物などが破壊されました。もちろん、お寺の仏像なども棄却され、また国外に流出しました。当時、飛騨市古川町の小倉源蔵氏は医薬品製造の原料となる生薬を中国から大量に仕入れてた関係で、こうした仏像を収集されたのが永らく小倉氏の土蔵に収蔵されておりました。
今から十数年前、現当主、小倉和之氏は恩林寺に預託され、お守りをするように、とお預かりしておりましたところ、このたび預託した仏像はすべて永くお寺でお守りするように。と 言うお話をいただきました。
仏像は、白衣観音像、観音様仏頭、子安観音像、布袋様、広目天像など二十体に上ります。
恩林寺は飛騨三十三観音第十八番霊場として、さらに渡来の仏像をおまつりするお寺として皆様方に御縁をいただけるものと感謝いたしております。
住職合掌
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