正渓寺
頭陀袋033 目がものをいう。
話をする、ということは難しいことです。
井戸端会議や雑談を得意とする人でも改まって人前での話となるとなかなか難しいようです。世の中、どちらかといえば能弁な人より、口下手なひとのほうがおおいのではないでしょうか?中には人前ではほとんど口のきけない内気な人もおられます。そのような人と話をするのには言葉より、むしろ体全体を通して、心の窓である目の動きや輝きに、そしてそのうるおいに注目したいものであります。
仏教では(布施)を、大切な修行としています。布施行には「無財の七施」があり、その一つに「眼施」というのがあります。これは、人には良い眼をして接するということであります。べらべらしゃべるよりやさしいまなざしで人に接することができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。目を見ればその人の心がわかるとか、目は口ほどに物をいいとか、むかしから言われていますがまさにそのとおりであります。眼は心の現れなのですから。幼児の、あの澄んだ綺麗な眼、それに引き替え、大人のどんより濁った眼、とりわけ悪心に満ちた人の眼は恐ろしささえ感じます。
また、次に和顔施というのがあります。いつも優しい顔、微笑を絶やさぬ顔をした人に接すると、自分まで心が穏やかになります。これも、布施行のひとつで大切なことであります。 しかし、人間は常に感情の起伏があり、いつもこのような状態を保つことができません。
眼や顔は言葉ではありませんが、言葉以上に重要なものであります。眼は心の窓、思いやりの窓と言われています。たとえば、口もとは笑っていても眼が笑っていないのは本当にうれしくないかもしれません。また、反対に表情は済ましていても、眼がおかしそうに笑っていることもあります。感激して胸が熱くなり、言葉が出ないときもあります。その時の眼は何よりも雄弁に、心の中を語ってくれていることでしょう。
眼がものをいうことは素晴らしいことでありますが、私たちは言葉だけに頼らず、こうしたからだ、とりわけ、目や顔に注目し思いやりの心を持ちたいものです。
彼岸会・涅槃会の御礼
三月二十二日、 関市・正渓寺様、各務ヶ原市・清見寺様、東山・宗猷寺様をお迎えして、春の彼岸会、涅槃会をお勤めすることができました。
また、 古川町、西野彰さんに[落語]を聞かせていただきました。お忙しい中、お寺にお運びいただきましてありがとうございました。涅槃会のお供えとして京都、田丸弥の花供曾(はなくそ)というあられをお持ち帰りいただきました。京都、真如堂では涅槃忌に参拝者にお配りし、お釈迦様の御縁としているそうです。
住職合掌
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頭陀袋070 一分は生まれつき、九分は親の教え
うちの子はハイハイをし出すのが遅いような気がする…?
隣の子はひらがなが読めるのに、うちの子はどうしてまだ読めないのだろう…?
なぜ、うちの子だけ逆上がりができないの…?
様々なことで親は、わが子とほかの子と比べたがる。
劣っていると不安になり、どうしてなのかと苛立つのもよくあることだ。
江戸時代の学者、林子平 (はやししへい) が書いた「父兄訓」では親のそういった態度を一刀両断にしている。
わが子が他人の子に劣っていることに腹が立って、ののしり叱る親がいる。これはあまりにも無理、無体な事である。子供が劣るのは生まれつきではなく、親の教育が悪いからなのだ。子供の出来は一分が生まれつき、残り九分は親の教えによる。子供をみれば親が賢いかどうかまでわかるものだ。子は親の鏡のようなもの。「勉強しろ。」と口うるさく言う前に自分もまず学び、成長することが大切でしょう。近年はマスコミが悪い、学校の先生が悪いと、責任転嫁している例が多いように思えます。
山号について
下岡本にある願生寺様は山号を【海塩山】 真光寺様は【萱垣山】と申します。ほぼどこのお寺にも山号というのがあって、もともと山の裾、山の上、などにお寺があったので○○山○○寺といったのでしょう。
願生寺様は金森様が高山を治める前は、旧荘川村海塩にあったことに由来しています。真光寺様の萱垣山の由来は、天文年間、萱垣市右衛門という方が出家し真光寺の基を築いたという歴史があります。
ちなみに恩林寺は現在の八日市羽田の華岳山麓にあり、高山に移転後も旧跡:華岳山を名乗っております。
昨年秋には黄檗宗管長猊下をお迎えして観音慶讃法要を務めましたが、その折猊下の御染筆「華岳」を記念として頂戴いたしました。
早速、表装ができあがりましたので、三月十八日春の彼岸法要の折、お披露目させていただきました。
お寺の近況
三月十八日(観音様のご縁日)恩林寺で は涅槃忌が勤まりました。 当日は、関市:正溪寺様、各務ヶ原:清見寺様、高山:宗猷寺様、恩林寺住職、 鳳雅禅士が奉仕くださいました。
お釈迦様が亡くなった時の涅槃図の解説、三月におこなわれました黄檗山禅堂の雲水さんたちによる遠鉢(えんぱつ)の様子について報告いたしました。また、鳳雅禅士の黄檗山学生寮にこの三月から入寮することなどを報告させていただきました。
住職合掌
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春期法要
3月23日(土) 春季法要がありました。
たくさんの方に来ていただき、 とても感謝しております。
今回は、 高山市:宗猷寺様、関市:正渓寺様、各務ヶ原市:清見寺様にお越し頂きました。
皆さまの思いが少しでも、 仏様のもとへ届きますよう、私たちも祈っております。
今後ともどうぞ、 よろしくお願いします。
小僧合掌
令和最初の秋季法要
9月23日(月)、當山先覺和尚忌、永代詞堂総回向を行いました。
台風の影響により、少し遅延しましたが、たくさんのご理解とご協力により、無事に挙行することができました。
秋の彼岸は「一年の感謝」を伝える行事です。
恩林寺を支えてくださり、一年ありがとうございました。またこれからもどうかよろしくお願い致します。
小僧合掌
お施餓鬼法要の御案内
毎年、恩林寺一番の行事。
お施餓鬼法要を下記のとおり予定しております。
令和二年七月五日(日)午前十一時~
斎座(昼食)を用意しております。
お参りいただける方は、お寺までお知らせください。
岐阜県もようやく緊急事態宣言解除となりました。
今年はコロナウイルスのことも考え、例年より遅い時期となりましたこと、ご了承ください。
頭陀袋098 堪忍袋の緒が切れる
「きれる」と、国語辞典を引くと二十項目にも上る意味、使い方に出会います。
でも主語をつけて「あの人はきれる」と、言えばおのずと意味は限定されてきます。
日本語としての「きれる」とは頭の良い人、物事をテキパキ片付ける能力のある人を言います。
ところが「きれる人」の解釈がまるで変ってしまったことが解ります。
すぐキレる若者、イライラしている人、すぐ怒り出す人、今流にいえば「きれる」は堪忍袋の緒が切れるの方の「切れる」が一般的のようです。
キレる若者の割合は60%を超えたようです。
「ムシャクシャして誰でもよいから殺してやろうと思った。」との供述が、犯罪者の言葉として報道されます。
「堪忍」とは「耐え忍ぶこと」ですが、堪忍する修業をしなければ堪忍は身につかないでしょう。
自分をしっかり管理する修業を積むことが大切です。
私たちは堪忍袋の緒を切ってはいけません。人間は緒をしっかり結んでおかなければならない堪忍袋を三つ内蔵しています。
貪欲が詰め込まれている貪袋、怒りが詰め込まれている瞋袋、愚かさが詰め込まれている痴袋の三つです。
緒が緩むと貪瞋痴が漏れ出し血液中に入り込み全身を駆け巡ります。
そうすると「この私」が欲張り、怒りんぼ、愚か者になり果ててしまうのです。
古来、堪忍袋の緒を切ったばかりに人生をだいなしにしてしまった人は数知れません。
「切れてはいけない。キレてはいけない。」
と、心に念じ、耐える修業を積まねばなりません。
お施餓鬼法要無事終わりました。
七月五日、毎年恒例のお施餓鬼法要を勤めさせていただきました。
当日は岐阜県内黄檗寺院様、東山宗猷寺住職様、総勢10名あまりで、コロナ等、皆様気がかりの中ご参詣いただきありがとうございました。
紙面を借り厚く御礼申し上げます。
住職合掌
実際の頭陀袋はこちらです。