古田住職の話

頭陀袋050 他人の過ち

人間は自分だけの力で大きくなることはできません。

多くの人達と付き合ってそのなかでいろいろ学び成長するものです。他人の良いところを身に着け、悪いところは真似しないようにしていけば、人との付き合いは楽しくなります。

ところがいったん相手が嫌いになったりすると、急にその人の欠点が目につきやすくなり間違った言動をしているとわかると、さらに許せなくなります。そうするとそばに行ってやさしく間違いを直してあげようとはせず思わず相手から距離を取るようになったりします。

これが反対に自分の事となると、人は犯した過ちを何とか正当化しようと言いつくろい、時には嘘までついて状況をおかしくしてしまったりします。素直に「ごめんなさい。」と謝ることができないばかりに、のっぴきならないことになってしまいます。

孔子も論語の中で(過ちを犯したならばためらうことなく改めなければならない。)と、 言っています。私たちは残念ながら他人の事はたやすく批判するのに、自分の過ちをなかなか認めようとしません。いつもいろいろな言い訳ばかりしています。

佛教では 仏様や和尚さんに、おかした罪を告白して許しを願うことを懺悔(ざんげ)といいます。中には常に懺悔を心がけている人もあります。人の過ちをあれこれ指摘する前にまずは一呼吸おいて自分自身のことを振り返って考えてみるゆとりをいつも持ちたいものです。

恩林寺寺報(頭陀袋)は今回、五十号を迎えました。

次は百号に向かってさらに 頑張ります。ご支援感謝いたしております。

住職合掌

頭陀袋050 他人の過ち

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平成28年 2019/02/09takenoko

頭陀袋055 石の上にも三年

石の上にも三年

この言葉は日常生活の中でよく用いられる言葉です。
冷たい石の上でも三年も座れば温まるということから、たとえつらい事でも我慢強く頑張れば やがては報われる。という意味に使われます。(最近の子どもは我慢が足りない)とはよく言われることです。確かに子供に限らずわたしたちも我慢が足りないと思うことが多い毎日です。

日本の国は豊かになり、ほしいものは何でも手に入る。本当に良い時代になっております。昔のように、国全体が貧しく、ほしいものも手に入らない時代から大きく様変わりしました。大きな買い物でも分割払いで出来るようになり私たちの生活はますます便利なものになってきております。

しかしその一方でローン地獄とかカード地獄というような悲劇を生んでいるのも事実です。また、ほしいもの が簡単に手に入るから、容易に手に入るものが遅れたりするとイライラして他人に八つ当たりしたり自分でイジイジ悩んだりします。

社会全体が我慢が足りなくなっている、というのが日本の今日の状態ではないでしょうか。もともと「我慢」と いうのは仏教用語なのですがあまり良い意味には使われてきませんでした。釈尊のおられた当時、「我」があってこれを支配するのは自分であるという考えがありました。釈尊は、俺、己れ、と自己中心になるのを戒められました。佛教ではこのおごり高ぶる心を七漫途いい、その一つに我慢がある。それがガンバルとか、辛抱するというような前向きな言葉として用いられるようになりました。

世の中ほしいものすべて手には入りません。すべてが自分の思い通りにもなりません。我慢とは耐え忍ぶということです。大乗仏教の修行法には六波羅蜜というのがあってその一つに忍辱波羅蜜があります。

忍辱とは完全な忍耐のことで他人からそしられたり馬鹿にされてもこれに反撃することなく常に相手に対し愛情をもって接することを言います。

悟りを得るためには怒りを抑え、耐え忍ばねばなりません。釈尊の弟子にアングリマールヤという方がおられました。この人は入門前は殺人鬼として畏れられていました。彼は入門間もないころ、托鉢に出かけますと、人々は彼に向かって、つばを吐きかけたり石や瓦を投げつけました。お布施などまるでなくいつもからの鉢のまま、血みどろになって精舎に帰ってきました。釈尊は「アングリマールヤよ。耐え忍ぶのだ。逃げてはならない。」と申されました。彼は釈尊の言葉に元気ずけられ迫害を受けながらも町を歩き修行を続けました。釈尊はどんな悪事を働いたものでも懺悔して仏弟子となれば必ず悟りが得られると考えておられたのです。アングリマールヤは釈尊の期待によく応えたのでした。世の中の真実は「一切は苦である]ということが解ります。この「四苦八苦」思い通りにならない苦しみを明快にあらわしています。

求めても得ることのない苦しみ、車がほしい、家がほしい、お金がほしい…あるいは目に見えないもの、もっとやせたい、愛情がほしい…さきほどのアングリマールヤも、もともとは熱心なバラモンの信者でした。ふとしたことから殺人鬼となり、百人の人を殺すことを目的とするようになったのでした。結局、自分本位になっていたのです。

日頃私たちは足るを知る、満足することを知ることをこころがけねばなりません。これからの私たちは正しい信仰に基ずいて一つの目的達成のために志を忘れず耐え忍んでいくことがたいせつではないでしょうか。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋057 おのれの主

おのれこそおのれの主。

おのれこそおのれの頼りである。だから何よりもまず、おのれをおさえなければならない。

私たちはしばしば自分を見失います。解っていながらじぶんではどうしようもなくなるのです。その理由は様々です。「あいつに負けた。悔しい。」などということはよくあります。(金や地位を失ってこれからどう生きようか)と、絶望することもあるでしょう。希望通りに運ばないこともよくあります。病気も、失恋も人生における大きな心の傷となります。

平成二十年東京の秋葉原で通り魔事件が起こりました。犯人の青年は秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ後ナイフで凶行に及び、十七人の死傷者を出しました。 通り魔事件としては史上最悪の事件と言われています。その青年は「思い通りにいかないことがあって誰にも話せない。だれでもいいから構ってほしかった。」と 述べております。やったことはもちろん許されないことですがこの思いは社会に疎外された現代の若者に共通しているの かもしれません。

<p>しかし思い通りにならないと思うのは自分の自我に振り回されているからです。その自我が「ないものねだり」をし、[限りなくねだる。]からいつも欲求不満に苦しむのです。これは私たちの性と言ってもいいでしょう。傷ついた心はいやさねばなりません。そして空腹になったらじぶんで食事をするしかないように、心が傷ついたら自分自身で癒すしかないのです。こればかりは他人 ねだって頼むことはできません。自我や欲望を整えることにつながるのです。

おのれこそはおのれの主(あるじ) おのれこそはおのれの頼りである。

だから、なによりもまず おのれを抑えなければならない

「パーリ法句経より」

住職合掌

頭陀袋057 おのれの主

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋058 諸惡莫作 衆善奉行 自淨其意 是諸佛敎

諸惡莫作 しょあくまくさ 衆善奉行 しゅぜんぶぎょう

自淨其意 じじょうごいぜ 是諸佛敎 ぜしょぶっきょう

中國の唐の時代の詩人、白楽天はあるとき有名な禅宗の高僧を訪ねました。

「和尚様。仏の教えとは、つまりどのようなものでしょうか。」

「悪いことをするな。よいことをせよ。ということだよ。」

「なんだ。そんな事か。そんな事なら三歳の子どもでも言えますよ。」

「三歳の子どもが正しく言えても、八十歳の老人ですら実践することができないではないか。」

「……… 」

それを聞いて白楽天は何も言えなくなりただ頭を下げるばかりでした。これは有名な禅の語録にある言葉ですが高僧が答えた仏の教えの意味は『法句経』からの引用です。学問的にはこれを七仏通戒の偈と言います。

原文ではさらに(おのおの心を清くする)と、言う言葉が続きます。白楽天は高僧があまりに単純なことをいうので少し見下したのでしょう。おごり高ぶる気持ちがあると私たちは善悪の判断が鈍り、日頃からほんの少しでも心を清くするような生き方ができていればそうしたおごり高ぶる心は自然と小さくなり、きえていくはずです。

高慢な気持ちを起こさない為にはまず、相手の立場になって考えてみることです。そうするとおそらくいろいろなことに気ずくはずです。生かされている自分に感謝をこめ、心清らかに明るく楽しい生活 を送りましょう。それが仏陀の思いでもあり教えでもあります。

渡来観音のいわれ

1347514.png昭和四十年頃、中国は文化大革命と言って毛主席が中国の政治に大改革を進めました。中国は、従来からの伝統を否定し、新しく生まれ変わるというものでした。この文化大革命によって、伝統ある寺院や宗教関係の建物などが破壊されました。もちろん、お寺の仏像なども棄却され、また国外に流出しました。当時、飛騨市古川町の小倉源蔵氏は医薬品製造の原料となる生薬を中国から大量に仕入れてた関係で、こうした仏像を収集されたのが永らく小倉氏の土蔵に収蔵されておりました。

今から十数年前、現当主、小倉和之氏は恩林寺に預託され、お守りをするように、とお預かりしておりましたところ、このたび預託した仏像はすべて永くお寺でお守りするように。と 言うお話をいただきました。

仏像は、白衣観音像、観音様仏頭、子安観音像、布袋様、広目天像など二十体に上ります。

恩林寺は飛騨三十三観音第十八番霊場として、さらに渡来の仏像をおまつりするお寺として皆様方に御縁をいただけるものと感謝いたしております。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋059 仏師屋、東平の大里・恵比寿像

私は若いころ、ある旧家の信徒さんにおまいりに行った時の事です。

「アンちゃん、あんたは寺の子やで知っとっるかもしれんが、大黒さん、恵比寿さんは仏さまかな? それとも神様かな?」

「家ではな、昔から神棚の横にこうして大黒、恵比寿を祀っておるんやが、ちょっと見てくれ。」こわごわ祠の戸をあけて御開帳。にこやかな大黒さん、恵比寿さんが現れました。

「これは立派なものやな。 一寸見せてくれ」確かその時の記憶では 足の裏(台尻)、に大仏師大坪東平とかいてあったように思います。何年かのち、下呂町の旧家を訪れたとき、またもや大坪東平の大黒恵比寿に出会い、そこで大坪東平という人に興味を持つようになりました。

うちの檀家さんにも先祖が宮地の人という大坪さんがみえますが関係あるのかなあ。大坪東平は藤兵衛と言い、国府村宮地に住んでいた仏師であったが、同じ村の百姓、伝十郎の娘婿となり善一と改めました。地元ではブシヤ(仏師屋)と呼ばれたのに、なぜか仏像の作品例が少なくわずか神社の狛犬や随身像が残されているだけで、本業より近隣が認める大酒飲みだったようです。

ただ、大黒、恵比寿の作品はたくさん残しており、像の台尻に作品番号を打つており、私は六千十番まで確認しました。彼は村人に頼まれればすぐさま二つ返事で大黒、恵比寿を彫ったようです。こうして、晩年は飛州吉城郡国府村、宮地組、大仏師大坪秀右衛門を名乗り、亡くなる七十六歳まで彫りつずけ現在でも旧吉城郡の農家や、広く飛騨中の旧家の神棚の横に大坪東平の大黒、恵比寿の像がおまつりされています。

大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財 天、福禄寿、布袋尊、寿老人をまとめて七福神と言いますが、神仏混淆の時代を経て七福神は日本の国民に親しまれてきました。もともと、ご出身はインド、中国、日本の神様、いろいろです。

①大黒天
ヒンズー教のシバ神の化身、食べ物、財福を司る。

②恵比寿
イザナギ、イザナミの間にうまれた蛭子、大国主の命の息子とも言われている 漁業。

③毘沙門天
ヒンズー教のノクーベラ神。戦いの神と言われた。佛教に取り入れられる。武運成就。

④弁財天
ヒンズー教の神、仏教に取り入れられ音楽、弁財、財福、習い事、恋愛成就。

⑤福禄寿
道教の道士、天南星、南極星の化身、寿老人と同一視される こともある。長寿と福禄をもたらす。

⑥布袋尊
唐の末、中國に実在した禅僧、手にした袋から財宝を人びとびとに与えたといわれる。弥勒菩薩の化身と言われる。家庭円満

⑦寿老人
幸福長寿、福徳、智慧を授ける。

七福神は現世利益幸福を届けてくれます。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋061a三学

悟りを求める人が学ばなければならない 三つのことがあります。

それは、戒律と心の統一(定)智慧の三学であります。これをまとめて戒、定、慧(かい、じょ う、え)と申します。

道を修めるものの守らねばならない戒を保ち、心身を統一せしめ、小さな罪にも恐れをおぼえ、よい行いをしてはげみ慎む。心の統一とは欲を離れ不善を離れて、しだいに心の安定にはいる。智慧とは四つの心理を知ることであり、これが苦しみである。これが苦しみの原因である。これが苦しみの消滅である。これが苦しみの消滅に至る道である。と明らかにさとることである。この三学を学ぶものが仏の弟子といわれる。

182406.png仏教では釈尊が得た悟りの境地に到達するため修行をします。その境地を目ざす人を仮に精神のアスリートと考えてみましょう。そうしたアスリートたちが精神を鍛え上げるためのトレーニングとは、はたしてどのようなものでしょうか。

ふつうのアスリートであれば、走る、飛ぶ、投げるといった目に見えるパフオ ーマンスを繰り返して肉体を鍛え上げてゆきます。精神を鍛えるときもやはりトレーニングが必要です。それは戒律、 禅定、智慧という三種のトレーニングなのです。その内容はまさに前述のとおりなのですが、ここでは逆の順番で説明いたします。

精神のアスリートが最終的に目指すのは四つの真理を見極めることです。これらをよく知るためには素晴らしい智慧が必要になってきます。その智慧を獲得するために実践するのが、心のトレーニング、つまり瞑想です。具体的には、座禅をすることによって精神の安定が図られるように鍛錬するのです。その心の統一を行うための準備運動として戒律を守らねばなりません。心と体を分けて考えるのが一般的ですが実はこの二つは深くつながっていて、戒律を守ることは心身の両方を自ら律していくことになります。これこそが精神のアスリートの実践トレーニング法に外なりません。いかがでしょうか。あなたも精神のアス リートを目指してみませんか?

こどもべや

たのしいことはみんなでわけあってもへらないよ。

ともだちとあそんでいて、いちばんたのしいのはみんながむちゅうになったり、みんなでわらったりしたとき。

きみがたのしくても、ともだちのだれかがつまらなかったり、さびしいおもいをしていたら、ほんとうのたのしさとはちがいます。

ゲームや、サッカー、ドッチボールのきゅうぎだって、みんながすき、みんなでやったほうが、たのしいです。

うれしいことはひとりじめしたり、なかのいい子だけで、どくせんしないこと。

たのしさをわけあってみんなにひろげていくと、もっとたのしくなります。

わけあっても、たのしいことは、ぜったいへりませんよ。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋062 人生三つの生き方

私たちの大先輩の布教師、服部祖承老師の著書に人生には三つの生き方がある。ということがありました。

大変味わい深いはなしでありますので、要旨のみ紹介いたします。

kohacu.com_000201_20170919-300x300.pngまず初めに蟻のような生き方。(食べるために働き、生き延びるだけに働く)

食べられるものならトンボのしっぽ、ウジ虫、なんでも巣の中に持ち込みます。生きるためには恥も外聞も考えない。

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次には蜘蛛のような生き方。(労少なくして功多し)

欲望的、打算的な生き方です。雨が降ろうが風が吹こうが巣のど真ん中に座り込んで獲物がかかるのを待ち続けます。入学試験は努力するがいったん合格すれば勉強や努力をやめてしまう。宝の持ち腐れ功利的な生き方です。

bug_mitsubachi.png三つめは蜂のような生き方です。
ミツバチはこれは、と思う花から蜜を吸収し自分の能力いっぱいにはちみつを創造るのです。

私たちはこの三つのうち、どこに属するでしょうか。人間はだれしもこの三つの要素を持っていますがどこに比重がかかっているかで人の価値に差が出てまいります。自分の一生は後戻りのできない一度きりのもので、他者とのかかわりを自覚した実践の生活であります。こうして私たちは親になり、親の生きざまが子供の内容を作るのですから、おおきな責任がかかってきます。
ローソクがローソクとして燃えてローソクの真実を成就するように、そしてその燃え尽きるまでの道すがら周りを明るくしているように人間も間柄を自覚して生きる事こそが父として、また母としての生きざまであり人間の真実の生き方でありましょう。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋064 人生の旅も変化がある方が味わい深い

長野県塩尻市の曹洞宗無量寺東堂 (前住職) 青山俊董(あおやましゅんどう)師は曹洞宗の大教師として尼僧教育に努められ八十二歳の今もご活躍です。

今年九月、海竜社から出版された単行本は素晴らしいことが たくさん書いてあるのでまとめ買いをして親しい仲間に施本をいたしました。その内容を一分紹介いたします。

亭主関白だった御主人を亡くされたMさんがしみじみいった。
「主人のいるうちはこんなわがままな亭主はいなくなったらさぞかし楽になるだろうなあと思いました。ところがなくなってみて初めてこんなに風除けになってくれていたのかと、遅ればせながら気づかせていただきました。毎日お線香をあげては主人に詫び、また感謝しています。」

月も雲間があったほうが楽しいよう に人生の旅も変化があったほうが良い。愛する日あり、憎しみあう日もあり成功して天にも昇る思いになったり失敗して谷底の沈む思いになってみたり、生まれた喜び、死んだと嘆き、おかげで七十年、八十年、退屈することなくすごさせてもらうことができる。月と雲と、空とそして地上の山やススキと、全体が一つの視野の中にあるから美しくまた楽しいのである。人生の景色も愛の時は愛にのみとらわれ憎しみに変わったら憎しみのみで他が見えなくなってし まうと楽しくない。愛と憎しみとは一つのことの裏表。「こんなに憎らしいのはこんなに愛している証拠」一方の姿にとらわれず常に全体の展望ができる目の高さを持って生きることができたら人生の味わいは深いものになるでしょう。

お寺からのお知らせ

ことしの秋の彼岸総回向法要は、下岡本町 和合会物故者法要、恩林寺門前おやじ会、檀家様の年忌法要などが重なり、彼岸中、夜座を設けお寺だけで祠堂回向、永代経供養、三十三観音参拝者各位の先祖供養をさせていただきます。

黄檗宗管長近藤博道猊下御親修

ご本尊聖観世音菩薩奉賛法要について 管長猊下はかねて末寺の活性化のためよりたくさんの末寺を訪問し、檀信徒の皆さんにおあいしたいとのご方針から就任以来、積極的に地方の末寺の御親修をされております。
この度骨山、恩林寺にお運びいただける こととなり、来る十一月十一日午前十時ご本尊聖観世音菩薩奉賛法要をお勤めすることとなりました。檀信徒様のご参加をぜひともお願いいたします。
恩林寺ご本尊は昔、黄檗山萬福寺聯灯堂の秘仏でありましたが直翁管長の時代に下付されたというご縁があります。

頭陀袋第六十四号について

先日、森下町の寺脇さんから電話がありました。「和尚さん、頭陀袋は六十一号が二枚もあるよ。」とのご託宣。
坊さんは名前の通りボーッとしておりました。つまり今回は六十四号にあたります。ごめんなさい。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋066 雲 無心

「都市に住みビジネスに走り回る人々はつまらないことでいがみ合い怒鳴り合ったりしている。空を仰ぐことを忘れているからだ。

空はいい。雲が形を一瞬一瞬変えながら流れていく。こだわりなど、どこにもない。

雲は無心にして咄を出で、鳥は飛ぶに倦んで還るを知る。(帰去来の言葉)陶淵明は大空を仰いで天地自然のこだわりのない無心の感動を覚えている。

詩人の魂に都市の生活に疲れたじぶんの心を比べると涙が出るほど今の自分のみじめさがわかる。

どうしてこんなに心が乾いてしまったのだろうか。そんなとき一日、空を仰いでみる。乾いた心を溶かしてくれるのがよくわかる。

ご報告

十一月十一日ご本尊聖観世音菩薩慶賛法要,宗祖、隠元禅師追悼並びに檀信徒各家先祖供養が務まりました。

66ss.jpg当日は黄檗宗管長、近藤博道猊下,
名古屋真聖寺:木村信安和尚様
岐阜市真聖寺:村瀬正光和尚様。
各務ヶ原清見寺:中野妙照禅尼様
宗猷寺:今城東徹和尚様
恩林寺住職、徒弟:鳳雅禅士が加担くださいました。

恩林寺で管長猊下をお迎えするというのは実に八十年ぶりでありまして大変うれしいことでした。引きつずき猊下の御親教があり、次に犬山市先聖寺住職:芹沢保道老師の、黄檗文化と私たちの生活について、と題し、隠元禅師の生い立ち、禅師がもたらした煎茶、食材、思想などの興味深いお話があり、皆さんで食事をしたのち解散いたしました。
管長猊下は翌日にも御親教を控えておられご多忙の中の御巡錫でした。

住職合掌

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平成29年 2019/02/10takenoko

頭陀袋067 行く年・くる年

行く年

平成二十九年は住職にとりまして有意義な年でありました。

春の彼岸会ののち、六月にはお施餓鬼、本堂の屋根葺き替え工事、十一月には管長猊下の御巡錫と続き、あわただしく過ぎ去りました。また、長年勤務いたしました会社を退職し、法務に専念できるようになりました。少しゆったりできるかと思いましたが、予想より多忙な毎日でした。

まず健康で檀信徒様に寄り添うことができるよう心掛けてまいりたいとかんがえております。

考えてみますと檀信徒様のご家庭でもいろいろな事がありました。今後とも住職にできることがありましたらお声をかけていただきたいと思っております。

人には八万四千の煩悩があるといわれております。これを縮めて百八。 恩林寺では碁石の白を五十四個、黒を五十四個用意し、除夜の鐘に備えます。午後十一時過ぎ、鐘をつき始めます。白い碁石を、鐘一打ごとに別の箱に移します。白がなくなると半分突き終わる事になります。こうして私たちはこの一年の心の整理をして、新しい年を迎えます。

除夜の鐘

当日は、どなたでもご参加いただき、どなたでも鐘をついていただけます。

くる年

禅宗の言葉に、日、日、これ好日。という言葉があります。毎日、毎日がかけがえのない一日であり、大切な一日であります。与えられた一日を無駄にしないよう今年も一年頑張りたいと思います。

さて先般、檀家さんから言われたのですが、「頭陀袋にはいろいろいいことが書いてあるけどなかなか書いてある通りにはいかんもな。」

そこではっとしました。書いてあるだけでは空説法。実践が大切やなあ。今年は日日是好日とするために声を出して実践しましょう。
ありがとう。おかげさまで。少し照れ臭いですが思い切って口に出してみましょう。毎日良い日がむかえられます。

237031.pngくる年は一昨年得度しました鳳雅禅士が黄檗山学生寮に入寮し、大学生活を送ることになりました。日頃の檀信徒様のご支援のおかげと感謝いたしております。

お寺の行事は、春のお彼岸、六月のお施 餓鬼、秋の彼岸会と続きます。その都度、ご案内をいたしたいと考えております。
お寺で会合をしたい方、お寺での催し、空いている限り開放いたします。御親族、お世話になった方のご供養。観音様のお参り。
どうぞ声をかけていただきたいと 思っております。

住職合掌

頭陀袋067 行く年・くる年

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平成30年 2019/02/16takenoko

ブログ運営者

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檀信徒の皆さんに『一休さん・珍念さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております恩林寺徒弟、鳳雅禅士です。

住職との血縁関係はない在家出身ですが、恩林寺で僧侶となる仏縁を頂戴し、幼き頃からの夢を叶えることができました。

今は京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(黄檗宗本山)にて修行しながら大学に通わせて頂いておりますので、普段は恩林寺におりません。

年末年始やお盆には帰ってきます。その時に皆さんと笑顔で会える様に「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。

感謝・合掌。