即非如一
16.黄檗山第二代住持へ
この年の八月二十三日、禅堂が建ちました。
たまたま即非和尚がこの日黄檗山に登って来られましたので、冬の修行期には木庵禅師と即非和尚が東西両堂の首座として五百人近くの修行僧の指導にあたられました。
また、十二月には老和尚による三壇戒の授戒会が催され、禅師は羯磨阿闍梨の役を勤められました。
寛文四年九月、隠元老和尚は松隠堂へ隠退され、木庵禅師に黄檗山第二代住持の席を継がせられました。
禅師が祝国開堂の式を挙げて住持となられました時、法弟の即非和尚が白槌師となって式を進められましたが、その規則や法会が厳かに行なわれて、その見事なことといったら、まるですべてがすっかり新しくなったように感じられ、列席した僧俗の人たちは新しく開かれた黄檗の禅風に感激しました。
式が終りますと即非和尚は長崎へ帰られました。
12.太平寺の住持
太平寺は滴たるばかりの翠の山々に囲まれていました。
禅師は座禅の余暇には田植えをされたり、野菜の種子を蒔かれたり、畚を負って土を運んだり、薪を採ったりされて、悟後の修行を積まれました。
ある僧が、
「隠元老和尚はあなたにどのような禅法をお伝えになりましたか」と尋ねられますと、
禅師は、
「私はここにいて筍の皮を剥いでいるのだ」 と答えられ、
僧がなおも、
「筍の皮を剥いでから何をなさいますか」と言うやいなや、禅師はその僧をぶったたかれました。
三年ここで住持をされているうちに仏殿も立派に修復し、寮舎も竣工しましたので、後を弟弟子の即非和尚に譲って、かねてからたびたび強く招請かれていた象山慧明寺の住持に移られました。
13.日本へ渡来
慧明寺に住持されてから一年余りたった頃、隠元老和尚から、
「海を渡って日本に来て教化の手伝いをするように」
と親書が届けられました。
禅師は、
「日本においでになるお師匠さまのいいつけであるから、そむくわけにはいかない」
と言って、四十五歳の夏七月九日海を渡って長崎に上陸、出迎えられて福済寺にお入りになりました。
ちょうど一ヶ月後の八月九日には老和尚は大阪摂津の普門寺へと旅立たれましたので、禅師は諫早まで伴ををされ、あわただしい師弟の異国での別離に悲しまれましたが、翌年二月十六日には法弟の即非和尚を長崎に迎え再会を歓こばれました。
禅師は、冬の修行期が終ると、鐘板に封をされて、隠元老和尚が長崎に帰って来られるのを待たれました。
14.長崎の二甘露門
禅師と即非和尚とは殊に仲が良く、お互いに詩偈を作りあったり、舟で沖に出て語りあったり、福済寺と崇福寺を相互いに訪れあったりされました。
また、お二人で盛んに禅の教化にしたので、長崎の人たちは二人を仏教界の二甘露門と稱んで崇めていました。
甘露というのは、人びとの苦悩を去り、長寿を保ち、死者を復活させるという、甘味の霊液のことで、この二人の禅僧こそ、そういった甘露の法を人びとに説かれる方だと信じ仰いでいたからです。
秋になりますと、鉄牛和尚が隠元老和尚の書と竜渓和尚の手紙を持参して、木庵禅師に普門寺へ上るように伝えられました。
禅師は辞衆上堂(住持を退いて弟子たちと別れるに当っての最後の説法)を行なって長崎を発たれました。
小倉では藩主の小笠原公がわざわざお迎えに出られました。
19.江戸の瑞聖寺
関東地方での黄檗宗の教線は日に日に拡がり、上野に萬徳山広済寺が潮音和尚によって建てられ、また江戸に紫雲山瑞聖寺が鉄牛和尚を住寺として迎えました。
寛文十一年四月、瑞聖寺の伽藍が竣工したのを機に、かねてから心にかけられておられた紫衣下賜へのお礼もかねて江戸へ旅立たれました。五月九日、無事瑞聖寺に入られ、進山式を挙げられました。
参詣者は引きもきらず一日一万人といわれました。
また禅師が江戸に出てこられたというので、酒井雅楽頭を始め幕府の高官たちがお斎(ご馳走の宴)を設けて次々に禅師を邸に招ねかれました。この時、鉄牛和尚を首座に、潮音和尚を西堂に迎え瑞聖寺で坐禅会が催されました。
たまたま法弟の即非和尚が亡くなられた報せがもたらされました。禅師はいたく悲しまれ位牌を設けて法要をいとなまれました。