縁起

頭陀袋046 縁起ということ

仏教がほかの宗教と異なるのは特に縁起ということを説いている点にあります。
仏様の教えに照らし合わせてこの人生をどうとらえ、いかにきりひらいていくべきか、そのための道しるべというべきものが仏教です。もともと仏教とは言わず仏法と言い習わしてきました。また、仏道とも言います。ついでながら信仰も仏教的には信心と申します。信心はただ上の空だけでは人生どこでつまずくかわかりません。

092_t.jpg禅宗では脚下照顧(キャッカショウコ)と説きますが、自分の足元が肝心です。あしもとをよくみよ。見る、聴く、話す、判断して実行する。その根本を司るのは心です。お経の中に「縁起を見るものは法を見る。」とあります。縁起をしっかり見据えることによりお釈迦様の悟りにより近付くことができるのです。

縁起とは因縁生起を略した言葉です。人や物のあらゆる存在、出来事 (現象) は必ずそれを起こさせる何かが複雑にま じりあいかかわっているという考え方です。その基本的な道理の踏まえ方、物の見方を「縁起観」といいます。私という一人の人間が存在するということも、父母なくしてこの世に 生を受けることなど不可能です。ましてや、乳をのみ食物をとらなければ育つことはできません。知識や経験、これも授かりものです。おもえば今までにどれほどおおくの人達との出会いがあったことか。こうしてみると私という一人の人間の正体とは実は無数のご縁の集まりといえます。こうしてみると世の中すべては持ちつ、もたれつ、の関係であり、支え合っている結び目の否定は、ほかならぬ自分自身の否定にもつながります。

こうした目 には見えない多くの恩恵を自覚した先人たちは素晴らしい言葉を編み出しました。これがおかげさまという言葉です。私たちの日常会話でもよく使います。その意味は神佛からのご加護、人から受けた恩恵などです。もう一つは「もったいない」これも私たち日本人の味わい深い言葉です。物を粗末にしない。過分の事で畏れおおい。という気持ちです。

この二つの言葉に共通しているのは神仏に対する敬虔な気持ちと感謝の気持ちです。こうした気持ちは身近であった今は亡き人たち、遠い祖先にまで及びます。春、秋の彼岸やお盆 の行事など時代を超えて今に伝えられています。一口に御先祖様といいますが、実は遠い祖先と父母や祖父母がおぼえている範囲の先祖があります。普段、私たちが先祖と言っているのはほとんど後者のようです。

1062463.png今から五年前、東日本大震災が起きました。おおくのひと達がなくなられ、大混乱の中痛ましくも無残な状況の中、被災者の方の中にはお墓や御位牌探しに心を砕く人たちの姿は国の内外を問わず深い感銘を与えました。しかし、その一方で現代社会の合理主義、インターネットの功罪、今、少し考えてみましょう。

先日、 和尚さんたちの集まりの中で、IT社会 に我々はだんだんついてゆけなくなったね。 という話題から、いやいや、最近は機械はだんだん進んだがその分みんなが白雉化して、恥ずかしい人間ばかりが増えてきたような気がするね。なんて話になりました。静かに考えてみたい問題だと思いました。

住職合掌

頭陀袋046 縁起ということ

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平成28年 2019/02/09takenoko

頭陀袋053 ご縁ということ

世間ではよく「縁起がいい」「縁起が悪い」と言いますがこの場合、モノの起こる(兆し)とか(前兆)途いうような意味に使われているようです。

たとえば、「今朝、ご飯の時に茶柱がたったよ。何かいいことがあるに違いない。」とか、「今日、試合に負けたのは家を出るとき右足から出たからかなあ。」と言ったものです。

人は誰でも幸せを願います。しかしすべての人が自分の思い通りの人生を歩めるわけではありません。思いがけずうれしいことに出あう場合もあれば、突然不幸に見舞われることもあります。そんなとき、『これも運命だから致し方ない』という人もあります。また、『これは私たちではどうしようもない大きな力が働いていて、自分がじたばたしても人生は変わらないのだ』という人もいるわけです。

142916.pngそれでは仏教でいう縁起の思想というのはこうしたわけのわからないものなのでしょうか。いや、決してそうではありません。「縁起」という言葉はもともと、インドの古い言葉が漢訳されたもので因縁、因縁生、あるいは因縁法ともいい、縁によって起こる。ということです。つまり、ある一定条件に よって起こる現象の起こり方、とでも訳しましょうか。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれましたがその悟りの内容はこの縁起の道理(法則)であったといわれております。私たちが悟りを求める、仏になることを目指すということは(縁起の道理)を知り、それにかなった生き方を求め、めざすということにほかなりません。申すまでもなく仏教は宗教ですから縁起の道理は単なる道理原則というわけでなく、実践的な宗教価値をもっています。私たちがこの世に生まれてきたのは父母がいてくれたおかげですし、祖先が居てくれたおかげです。命をつないでいるのは食べ物のおかげでこれにはおおくの命をいただいております。したがってどのような現象でもたくさんの命(ちから)をいただいているわけです。

これらのかかわりを考えるとき、おのずと(おか げさまで)という感謝の心、お互いを尊重し合う心が生まれてきます。どのような人もおたがいに助け合わねば生きてはいけません。それならみんなが助け合いましょう。 と言うことになります。歎異抄の言葉に一切の有情(命あるもの)は皆もて世世生生。父母兄弟なり。とあります。阿弥陀様の光明に照らされて自分自身の本当の姿が知らされたなら皆、平等である、とのお示しです。

わたしたちの苦しみの原因は、 まず、自分さえよければ…という勝手な考えによるものです。どのような人でも他のものとのかかわりや調和において成立しているのですから私だけがおもいのままに行動したのでは多くの人に迷惑になります。

佛教では如実知見と言いますが、あるがままに真実を見る。ということを薦めています。どんなことも縁によって生ず。(ご縁によっていかされている。これらを認識する。) 真実の道理を知ることによって新しい展開があるのではないでしょうか?

住職合掌

頭陀袋053 ご縁ということ

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平成28年 2019/02/09takenoko
タグ:仏教 , 縁起

ブログ運営者

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檀信徒の皆さんに『一休さん・珍念さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております恩林寺徒弟、鳳雅禅士です。

住職との血縁関係はない在家出身ですが、恩林寺で僧侶となる仏縁を頂戴し、幼き頃からの夢を叶えることができました。

今は京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(黄檗宗本山)にて修行しながら大学に通わせて頂いておりますので、普段は恩林寺におりません。

年末年始やお盆には帰ってきます。その時に皆さんと笑顔で会える様に「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。

感謝・合掌。