頭陀袋019 侍女離魂 (迷悟・自己)

中国に張鑑という人がいて、その末子に倩という美しい娘がいた。又、張鑑の甥に王寅という、美男子がおり、張鑑ははじめ、甥に娘の侍を妻にやろうと、約束した。しかし後で、気が変わり軍の幕僚に嫁がせることにした。これを聞いた侍は悲しみ、気が鬱ったあ まり病気になってしまった。

王寅もまた、叔父が約束を違えた事をうらみ、国を去って都に向けて旅だった。旅の途中、船に乗って数里を行ったところで、夜半に、岸の上から船を追ってくるものがいる。誰かと思って見れば、あの恋しい侍女である。王寅はすぐ手を差し伸べて彼女を船の中に導き、方向を変えて蜀の国に入り、一緒に暮らした。

それから五年の歳月が過ぎ、倩は一人の子供を生み、仲むつまじく暮らしていた。ある日、倩は夫に言った。「私たちは、こうして子供もできたことですから、里帰りして両親にお会いし、これまでの親不孝をわびて、天下はれての夫婦になろうじゃありませんか。」夫も、「其れがいい、そうしよう。」 と言うことで、いっしょに故郷に帰った。まず、夫の王寅が一人で張鑑の家に行き、国を出てから、倩と一緒になった行きさつを話し、親不幸をわびた。張鑑はその話を聞き、たいへんおどろいて、「へんなことを言うではないか。娘はお前が旅に出てからというもの、ずっと、奥の部屋に寝込んでしまい家から出たこともないぞ。」

801670.pngしかし、王寅は其れを信じようともせず船に戻って妻と子を連れて義父の家の前に来たところ奥の部屋に寝ていた倩が出てきて彼らを出迎え、王寅が連れてきた倩と合体してしまった。

これは禅宗の無門関という本にある公案(坊さんの修行に出てくる宿題)です。

魂と胴体が離れて、また、くっついたことは、何を意味するのでしょうか?
王寅と一緒になった倩と、寝たきりの倩と、どちらが本当の自分でしょうか?
人間は時たま、自分を見失ったり、知らぬ間に別の自分がまよい出たりすることがあります。

住職合掌

頭陀袋019 侍女離魂 (迷悟・自己)

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平成26年 2019/02/03takenoko
タグ:仏教 , 無門関 ,

頭陀袋046 縁起ということ

仏教がほかの宗教と異なるのは特に縁起ということを説いている点にあります。
仏様の教えに照らし合わせてこの人生をどうとらえ、いかにきりひらいていくべきか、そのための道しるべというべきものが仏教です。もともと仏教とは言わず仏法と言い習わしてきました。また、仏道とも言います。ついでながら信仰も仏教的には信心と申します。信心はただ上の空だけでは人生どこでつまずくかわかりません。

092_t.jpg禅宗では脚下照顧(キャッカショウコ)と説きますが、自分の足元が肝心です。あしもとをよくみよ。見る、聴く、話す、判断して実行する。その根本を司るのは心です。お経の中に「縁起を見るものは法を見る。」とあります。縁起をしっかり見据えることによりお釈迦様の悟りにより近付くことができるのです。

縁起とは因縁生起を略した言葉です。人や物のあらゆる存在、出来事 (現象) は必ずそれを起こさせる何かが複雑にま じりあいかかわっているという考え方です。その基本的な道理の踏まえ方、物の見方を「縁起観」といいます。私という一人の人間が存在するということも、父母なくしてこの世に 生を受けることなど不可能です。ましてや、乳をのみ食物をとらなければ育つことはできません。知識や経験、これも授かりものです。おもえば今までにどれほどおおくの人達との出会いがあったことか。こうしてみると私という一人の人間の正体とは実は無数のご縁の集まりといえます。こうしてみると世の中すべては持ちつ、もたれつ、の関係であり、支え合っている結び目の否定は、ほかならぬ自分自身の否定にもつながります。

こうした目 には見えない多くの恩恵を自覚した先人たちは素晴らしい言葉を編み出しました。これがおかげさまという言葉です。私たちの日常会話でもよく使います。その意味は神佛からのご加護、人から受けた恩恵などです。もう一つは「もったいない」これも私たち日本人の味わい深い言葉です。物を粗末にしない。過分の事で畏れおおい。という気持ちです。

この二つの言葉に共通しているのは神仏に対する敬虔な気持ちと感謝の気持ちです。こうした気持ちは身近であった今は亡き人たち、遠い祖先にまで及びます。春、秋の彼岸やお盆 の行事など時代を超えて今に伝えられています。一口に御先祖様といいますが、実は遠い祖先と父母や祖父母がおぼえている範囲の先祖があります。普段、私たちが先祖と言っているのはほとんど後者のようです。

1062463.png今から五年前、東日本大震災が起きました。おおくのひと達がなくなられ、大混乱の中痛ましくも無残な状況の中、被災者の方の中にはお墓や御位牌探しに心を砕く人たちの姿は国の内外を問わず深い感銘を与えました。しかし、その一方で現代社会の合理主義、インターネットの功罪、今、少し考えてみましょう。

先日、 和尚さんたちの集まりの中で、IT社会 に我々はだんだんついてゆけなくなったね。 という話題から、いやいや、最近は機械はだんだん進んだがその分みんなが白雉化して、恥ずかしい人間ばかりが増えてきたような気がするね。なんて話になりました。静かに考えてみたい問題だと思いました。

住職合掌

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平成28年 2019/02/09takenoko

頭陀袋048 般若心経の解説

般若心経はすごく長ーい大乗仏教の教えをわずか三百字足らずでまとめた日本人にはなじみの深いお経です。

耳なし芳一が亡霊に連れ去られようとしたのを守ってもらえたのは全身に書いたお経のおかげでした。結局、耳だけ書き忘れ、削がれてしまったのですが。少し難解かと思いますが紹介いたします。

観音様は真実に目覚める修行を極められ、身も心も皆、空(無)であることを悟られ、一 切の苦しみから救われる道を示された。

舎利弗よ(弟子たちよ)形あるものは空であり、空が形あるものを構成している。したがって感覚、思い、分別、認識も皆、空なのだ。

舎利弗よ。この世の一切の真実は皆、空であって、生まれることもなくなることもなく汚れもせず、清らかにもならず増えもせず減りもしない。ゆえに空が構成する実相の世界では形あるものは何もない。

感覚、思い、分別、認識すらない。そこは 目、耳、鼻、身体、心といった感覚器官もない。形、声、香り、味わい、触覚、心の作用もない。目に見える世界から意識の 世界まで何もない。無明(迷い)もなく無明の尽きることもなく老死もなく、老死の尽きることもない。

苦も、苦の原因も苦のなくなることも、苦をなくする道もない。教えを知ることもな く、悟りを得ることもない。 何も得ることがないということを菩薩は真 実に目覚める知恵によってあるがままに見ることができるから心に障りがない。心に 障りがないから恐れることもない。したがって一切の迷いから離れて心の安らぎに至るのである。

どうでしょうか? まさに禅宗、空の世界ですね。私たちは、まる覚えで読んでいるお経にもふかい意味があるのですね。時々、こんな解説を部分的にも思い出しながら、読むというのもいいことではないか思います。般若心経の解説本は、たくさんの方々が書いておられます。本屋で見かけられましたら、またよいご縁が開けますように。

琵琶を聴く会(五月二日)

48J.jpg各務ヶ原市、黄檗宗清見寺住職、中野妙照禅尼様をお迎えして越前琵琶の演奏をして いただきました。
庵主さまのタイトルは(若き敦盛)でした。

まず表千家流、浅野晶子先生のお茶とう (献茶)があり、続いて皆さん抹茶をいただきながら琵琶を聴くという、楽しいひと時を過ごしていただきました。

住職合掌

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平成28年 2019/02/09takenoko

頭陀袋052 すべては心によって作られる

たいていの人は小学校、中学校と進む中で 一身上の事について相談する場合、いつも一緒という親友をもっていたと思います。

周りの人も認めるほどの仲良しの友人が一人ぐらいはいたでしょう。そして、お互いに『この人ほどいい人はいない』とか、『あいつは気が許せる』と考え、あいてが学校を休むと何となく不安で一日がつまらなくなってしまいます。

ところが些細なことで喧嘩をしてしまい二度と口を利かないという犬猿の仲になったりします。そんな時は『あいつは、あんな奴だとは思わなんだ』 とか、『ひどい人間だ。』とか考えて相手を憎く思う心が募ってきます。

このように私たちは時には親しくなったり、時には憎くなったりする「心」をもっています。そうした意味でも、心とは全く厄介なものです。このことは楞伽経、華厳経などにも取り上げられています。このことは仏教において心の在り方がいかに重要であるかを強調されている証拠と言えます。な ぜかと言えば実は「心」を調整することが仏教の目的である(悟りを得ること)の出発点だからです。

私たちの心は実にさまざまなものを作り出し、しかもそれにとらわれて生きているのが真相です。たとえば、もっと金持ちになりたい、と考えた場合、 自分が金持ちになったことを想像していい気分になったとしても、ふと、我に返って今までと変わらない自分がそこにいるわけです。そんなとき、むなしい気持ちになって人生に対し絶望感すら味わうことになります。しかしその一方で自分が想像したかな生活を現実のものにすべく必死で努力する人もいます。このように心の在り方がそのまま人の生き方に反映されてくるものです。心はよいほうにもわるい方にも動きます。その心を調整してよい方に向かわせるのが仏教の修行です。体で調子の悪いところがあればお医者さんに診てもらいますが心はなかなかそうはまいりません。心は 体の外に出して直接診てもらうことができません。

中国の禅宗の初祖、達磨大師について以下のような話が伝わっています

1382198.png達磨大師は少林寺で九年間、壁に向かって座禅を続けておりました。その間、誰が来ても弟子にしませんでした。ある日、慧可という人がやってきて入門を乞いますが、達磨は全く相手にしません。そこで慧可は刃物で自分の肘を切り落として決意のほどを示します。

そして「大師よ。私の心は不安定な状態です、お弟子にしてどうか安らかな心になるよう指導願います。」

達磨はこたえて曰く、「その心とやらをここに出しなさい。あなたのために安らかにしてあげましょう。」

また慧可は答えます。「心を求めましたが、どうしても手にいれることができませんでした。」

達磨曰く「慧可よ。あなたのためにすでに安らかにしましたよ。」

慧可はこの言葉により、忽然と悟りを開き、達磨の弟子になったというのです。慧可は達磨の法を継ぎ、中国禅宗の第二祖となった高僧です。心とは外へ取出し、目に見えるものではなく取り外しのきかないものです。 このようにつかみどころのない、様々な顔と働きを持つ心を人間は一人ひとり、皆が持っているのです。そしてその心をもっているのは自分だけであるような錯覚を起し他人の心のことを少しも考えません。

最近学校では、いじめの問題が大きく社会問題にまでなっています。友達から仲間はずれになったり、暴行されたりすることによって尊とい命を自ら断ってしまうという、痛ましい事件があとを絶ちません。テレビのインタビューを聞いていますと、親自身が子供の悩みに気付か無かったという例が いようです。事件が起こると、学校教育の在り方が問題となりますが、一番強いきずなで結ばれているはずの親ですら子供のことはすべてわかっているように思っていても実はほんとうの子どもの心の内を知ることはできなかったのです。このように、どの社会でもよく似た事件が起きているのです。私たちは災害などで他人が悩んだり苦しんだりしていると、その苦悩を理解したような気になるのですが、本当はわかっていなかったということを同様な事件が起きるたびに思い知らされます。人はそれぞれ違った心をもち、いろいろなことを考えて生きています。本当の心は確かに窺い難いものです。しかし、疑心暗鬼になる必要はありません。ただ、相手の心を少しでも知る。相手の身になって考える。そしてまず、自分自身が正しい心をもち正しく物事を見極めていこうとする心がけが大切ではないでしょうか。

(さんぽうの会、施本を参考にさせていただきました。)

●お寺からのお知らせ

九月十八日、歴代和尚追善法要、秋の彼岸永代祠堂法要を務めさせていただきました。今回はみなさん、運動会、稲刈りなど重なり、こじんまりとした法要でした。岐阜から正渓寺様、清見寺様、高山・宗猷寺様、 この夏、得度した鳳雅禅士がご参加くださいました。

●清見寺の庵主様(琵琶の尼様)

秋の彼岸法要においでいただきました清見寺の庵主様(琵琶の尼様)に来年もぜひ琵琶を聴く会をもよおしたいのでご都合つけてほしいとお願いしましたところ、快諾いただきました。来年度の行事予定発表のころまでには日時をうちあわせして発表い たします。お楽しみに。

●東山連合寺院、連合布教のお知らせ

高山市内ご門徒寺院様以外で作る東山連合寺院では毎年、各宗派の第一人者である布教師さんをおむかえして、お話を聞かせていただくことにしております。今年は、臨済宗、法華宗、黄檗宗の当番で、宗猷寺様のお世話で臨済宗の布教師さんをお迎えすることになりました。追って詳細はご案内いたしますが、十一月十八日、宗猷寺の観音法要に合わせ聴聞いたします。宗猷寺観音法要は三十三観音の仏像を参詣された皆さんに手渡しできるありがたい法要です。恩林寺の檀信徒のかたでご都合の つくかたはぜひお参りください。 法要には恩林寺住職も随喜させていただきます。

住職合掌

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平成28年 2019/02/09takenoko

頭陀袋080 曾源の一滴水(そうげんのいってきすい)『余分なものなど何一つない』

此の地上に存在するすべてのものは単独で 存在するものはない。

すべてのものは必要があって存在しているものと言える。

余分というものなど何もないのである。

岡山の曽源寺に儀山禅師が住んでおられた。若い雲水が風呂を焚いていると禅師が湯に入ってこられた。

「すこし熱いから、水でうめてくれんか。」儀山禅師に声をかけられた若い雲水は手桶に残っていた水を地面にあけ、新しい水を汲んできて湯に加えた。禅師はこの一瞬をとらえて雲水を諭した。「一滴の水でもどうして庭木の根元にかけてやれないのだ。水をもらえば庭木も助かるし、水も生きるでないか。禅を志す者は、すべてを生かし切る覚悟がなくてはならんのだよ。」若い雲水はその後、自らを(滴水:てきすい)と名乗った。

天龍寺の名僧、滴水禅師こそその人である。滴水禅師は、「曽源の一滴水は生涯使いきれなかった。」と言ってこの世を去っていった。と伝えられています。

茶禅一味

毎日、茶を何気なく飲んで過ごしている。茶と禅は深いかかわりを持っている。

鎌倉時代、栄西禅師は中国から茶の苗木を持ってきて禅の修行に疲れた修行僧の心身を回復させるために茶の栽培を行い、大いに日本に広めた。禅師は「茶は心臓を整え、内臓を強くし、心を静める良薬である。」と言っている。 このため禅と茶は、切っても 切れない間柄となっている。

千利休は天下一の茶人として知られている。禅は大徳寺で学んでいる。南方録という茶道の本には「小座敷の茶の湯は第一、仏法をもって得道することなり。水を運び、薪をとり、湯を沸かして仏に供え、人に施し、我も飲み、花を立て、香を焚きてみなみな仏祖の跡を学ぶなり。」とあります。

その昔、お茶を習う、というと良家のお嬢様の心得、などと言われておりました。 私たちの若いころ(今から五十年ぐらい前になりますが)習い事ブームだったのか、若い人は、お茶を習う。 着付け教室、洋裁、生け花、みんなが競争のように、習い事に通いました。最近また、お茶が国際的なブームを迎えようとしています。日本で使われる抹茶、煎茶も、中国製というのが出廻りそうです。

お茶を飲むということだけでなく、茶の湯のマナーも、この際、思い出すことが大切ではないかと感じております。

住職合掌

頭陀袋080 曾源の一滴水(そうげんのいってきすい)『余分なものなど何一つない』

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平成31年 2019/02/28takenoko

ブログ運営者

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檀信徒の皆さんに『一休さん・珍念さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております恩林寺徒弟、鳳雅禅士です。

住職との血縁関係はない在家出身ですが、恩林寺で僧侶となる仏縁を頂戴し、幼き頃からの夢を叶えることができました。

今は京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(黄檗宗本山)にて修行しながら大学に通わせて頂いておりますので、普段は恩林寺におりません。

年末年始やお盆には帰ってきます。その時に皆さんと笑顔で会える様に「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。

感謝・合掌。