古田住職の話

頭陀袋001 皆様私、恩林住職 古田正彦と申します。

801870.png永年和尚さんをしていてもなかなかお説法というものは巧くならないものでございます。 少しでも勉強してひとさまのお役に立ちたいと思いながら、大した活動もせずにおりましたところ、このほどちょっとしたお説法の参考書が手に入りまして、これならみさなまにおすそ分けできるのではないかと考えシリーズとしてプリントし、毎日の生活の参考にしていただく事が出来ないかと思うようになりました。

今回はじめての試みです。 今後ともご愛読いただきたく御願いいたします。このシリーズを頭陀袋となずけました。和尚さんが首にぶら下げている、黒い袋、お経の本、仏具、それにお布施、なんでも入る袋から、なにがこぼれ出ますやら、、、

>隠元禅師と寒天

隠元禅師というと隠元豆が頭に浮かぶ方が多いでしょう。隠元豆は隠元禅師にちなんで つけられた名前です。隠元禅師は中国、明の時代末期の禅僧で、日本の長崎、興福寺の逸 然の誘いに応じて承応三年(1654)に来朝なさいました.四代将軍、徳川家綱公は宇治に萬福寺を建て開山として迎えています。

隠元禅師は単なる高僧ではありません。弟子二十人とともに来朝して黄檗禅を伝えました。他にも沢山の中国文化を日本に紹介なさっています。先ず食文化として(普茶料理)が挙 げられるでしょう。隠元豆は普茶料理の食材としてもたらされた豆ですし,西瓜,蓮根も それまで日本では使わなかった食材です。今ではおなじみになっている孟宗竹やお経に使 われる木魚も禅師によって日本に伝えられました。また寒天についてはこんな話が残っています。伏見の旅館「美濃屋」の主人、美濃太郎左衛門はある冬の日、野外に捨てたトコロテンが乾物になっているのに気が付きました。興味を持った太郎左衛門はこれを隠元禅師に見せたところ精進料理の食材に奨励なさるとともに「寒天」と命名されたそうです。 寒天の発見者は美濃太郎左衛門鑑定命名者は隠元禅師というところでしょうか。其の後、 大坂の宮田半兵衛により製法改良され信州の小林桑左衛門によって寒冷地、諏訪の特産に なりました。現在寒天は粉末寒天、糸寒天、棒寒天があり、ダイエット食品の代表となっていますね。ゼラチンのゼリーとは別の性質を持つゼリーとして重宝がられ料理ばかりで なく和菓子の分野でも大変役に立っています。さらには寒天培地として細菌の培養に使わ れることが多いのではないでしょうか。わたくしの姪っ子が恵那の方に嫁いでおりますが 時たま「寒天」をお土産にいただいております。ダイエットの効果はどうでしょうか?

木庵禅師開山

恩林寺は隠元禅師の弟子で、黄檗山第二代、木庵禅師の開山です。

昔、滋賀県八日市羽田にあり、華岳山のふもとのお寺でした。今でも華岳山、恩林寺を名乗っております。

住職合掌

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋002 予言・預言・記別・授記

私たち生き物はすべて未来や将来の事柄を あらかじめ予見、予知する能力が備わっています。明日の天気や次に起きそうなことなど常識的な範囲のことを予知するならば別に驚きませんね。でも人の死を予見したり、地震、災害を予知する能力があるとしたらすごい能力があると驚きませんか? 普通人では推測できない将来の出来事を予見予知し、それらが起きないうちに人に語ることを予言(預言)といいます。

今はいろいろな機械を酷使して災害などを予見 予知し、予報として警戒を促す時代になりましたが、昔は人の予言(預言)に頼ったようです。予言者と預言者はほとんど同じ意味で仏教ではあまり用語の区別をしておりませんがユダヤ教、キリスト教、イスラム教では「神からの啓示を受けてそれを人々に伝える者」を予言者とし、ノストラダムのような予言者と区別をしております。

仏教では予言者自体、あまり問題にしておりません。予言などは仏教では必要ない。といっても過言ではありません。

しかし仏様にも予言はありました。ワカナラというインド語を訳すると記別,授記、となりますがこれは「あなたは未来世において、○ ●佛になるであろう。」と弟子に与えた仏の予言に他なりません。弟子に対し、未来の成仏を保障したのです。

仏教で予言があるとすれば成仏の保障と因果律だけでしょう。 超越神の意によって事柄の有無が左右されたり、特定の神の信者だけがよい目にあったりすることは認められておりません。神様といえども因果律にしたがわなければならないのです。因果の法則によりハルマゲドンの悪果(いやな記憶ですが)を起こさいように気をつけたいものです。

住職合掌

 

頭陀袋002 予言・預言・記別・授記

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋003 帰依・帰命・帰敬

南無阿弥陀仏、南無釈迦牟尼佛、南無妙法蓮華経などの最初の部分「南無」はインド の言葉でナマスを音写したもので漢訳すると「帰命」になります。

意味は「帰依」と同じといえましょう。 帰依とは『優れたものに帰順し、寄りすがること』だそうです。辞書には帰は帰投, 依は折伏のこと、すなわち絶対の帰順を意味する』ともありました。

そんな説明で はわからなくなってしまいますね。私は『あなたを信じてお任せしますのでお導きのほ どよろしくお願いします。』ということだと 思っております。

801404.png南無は帰依と同じですから仏法僧の三宝には、南無をつける代わりに帰依をつけても同じです。つまり、南無仏でも帰依仏でも同じ、南無法でも帰依法でも同じです。南無帰依仏というのは同意 語をダブらせることにより意味を強める効 果を狙った表現といえましょう。ところで 優れた人に帰依し敬礼することを帰敬といいます。「帰敬偈」は経典の冒頭にあって、仏、菩薩に対し帰依敬礼を示す句ですし、帰敬式といえば在俗の男女が、仏に帰依して仏弟子になる儀式を言いますね。

坊さんになるのには剃髪、受戒をいたしますが浄土真宗では髪を剃ったり、戒を受けたりするだけなので受戒と言わず帰敬式というようになりました。

いずれにしても仏をよりどころとし、仏の命に生き、仏を敬ってやまないのが私たち仏教徒です。 帰依,帰命,帰敬のどれもが{帰}がついているのは「仏様の元に帰る。」という意味がふくまれているからではないでしょうか? 仏子たる私たちはこの世に生きているうち から仏の家を我が家とし、仏の元から「いってきます。」「ただいま」を繰り返す日々を送ることにいたしましょう。

反省

先日、ある雑誌を見ていたら、博多の仙崖和尚が書いておられる言葉が紹介されておりました。

なるほどそのとおり。いちいち思い当たることばかり。少し反省いたしました。その言葉を紹介いたしましょう。

 

聴きたがる。淋しがる。でしゃばりたがる。 世話焼きたがる。くどくなる。

気短になる。愚痴になる。心がひがむ。 欲深くなる。またしても同じ話になる。 孫をほめる。

達者自慢に人は嫌がる。    仙崖

住職合掌

頭陀袋003 帰依・帰命・帰敬

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋004 厳父・慈母、それぞれの役割り

801865.pngオギャーと生まれお乳を飲んでひっくり返っているだけの乳飲み子はまさに肌身離さずという状態で母親はわが子をいつも肌に寄せているものです。今度は「手を離さず」 からやがて「目を離さず」の時期がやってきます。突然の地震で、とっさに抱きつくのは「おかあさーん。」などとほぼ間違いなく母親側になるのです。

よく考えればお父さんのほうが体力もあり、頼りになるのに 「お母さん怖いよー」なのです。 また、日中、わいわい騒いでいても寝るときになると、お父さんでなくお母さんにくっついて寝ているものです。子供に対する愛情は父親も母親も寸分も違わないものであるにしても子供はそれぞれ違った受け止め方をしているからなのでしょう。

そういったものをよく考えてみると、母親の愛情、父親の愛情の役割分担が違っていても当然であり、母親は「慈悲深さ」父親は「厳格さ」男女の特性をうまく生かしてそれぞれの役割を果たすことが子育てには一番ベストといえるのではないでしょうか。

この「慈悲深さ」「厳格さ」はそれぞれまったく異質でありながらどちらも欠かすことのできない愛情なのです。最近特に痛感していますことは母親が父親の役割を奪っている。ということです。世の父親は仕事が忙しく仕事が終われば付き合いがある。などと言って、なかなか家に居る時間が少ない。

「今頃までど こをほっつき歩いているやら。」などとこき下ろされ、挙句には、「そんなことしてたら お父さんみたいになるよ。」などといわれる始末。これでは旦那もすねたくなるかもしれません。

「あそこの塾に行きなさい。こういう習い事をしなさい。今がんばらないと将来、役に立たないわよ。」こうした指示、命令系統は父親の領域です。

また叱ること、 躾けをすることの責任は父親の特性を生かしてこそのものがあります。父親からガツンと叱られたときの逃げ場が慈悲深い母親の元なのです。厳しい父親に対し、「そんなにきつく言わないでよ。」と、子供をかばってあげること、そして「お母さんだけは僕の味方で居てくれる」という安心感が子供のよりどころとなるのです。今は、こうした甘えたい母親に甘えることもできず、心 のバランスを大きく崩し、右往左往している子供があふれかえっている。といっても過言ではありません。 かつては(厳父、慈母) の実践が当たり前のようにどの家庭でもいきわたっていたものです。日本のよい伝統というものは、どうにかしてのこしていきたいものですね。

住職合掌

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋005 福田・恩田・福分

福田さんとか恩田さんとかいう苗字の方がいらっしゃいますね。 そのかたがたのご先祖はきっと仏教に熱心な信者だったに違いありません。 (福田) は仏教読みでフクデンと読み、福徳を生ずる田を意味します。供養すれば必ず福徳が得られるということです。

syoutoku_taishi.png福田と呼ばれる者ははじめ仏弟子に限られておりましたが、後、拡大解釈されて三福田が数えられるようになりました。すなわち世に慕われる仏や僧を敬田、親や先生など恩に報いるべきものを恩田、貧しい者や病人を養わなければならないものを悲田という三種の福田がとかれるようになりました。

悲田については聖徳太子が四天王寺に設けられた悲田院や、光明皇后が平城京に設けられた悲田院がよく知られています。いつの世でも敬田、恩田、悲田の三福田は供養されなければなりませんし、そのことで社会が社会らしく成り立つのではないでしょうか。

237081.pngまた坊さんの袈裟の別名を福田衣(ふくでんね)というのはお袈裟は仏、仏弟子がいただくありがたい衣というほかにその條相が田んぼの畦に似ているからであります。
お袈裟自体に無量の功徳が備わっていることはもちろんです。これら福田をよく供養したことによる福徳の分け前を(福分)といいます。前世で行った善業の果報としてこの 世で受ける功徳が福分といっていいでしょう。 この世でうける福分の少ない人はぜひ、この世において善を積み、来世においてたくさんの福分を得られるよ うにこころがけたいものです。前世で積んだ善業がけして無駄ではなかったように今世でつむ善も来世に及ぶことを思い、毎日精進したいものです。そしてくれぐれも悪業を来世に持ち越すことのないように心したいものです。

かんのん霊場めぐり

今年は壇信徒さまの中に飛騨三十三かんのん霊場めぐりをしたいとのご希望がありましたら団参を計画したいと考えております。ご希望がありましたらお寺までお申し出ください

住職合掌

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋006 七光・十二光

阿弥陀佛の光明は尽きることなく私 たちを照らして居てくださることから、後光を無数の光の筋として表すことが多いですね。その光には十二種あるそうで、無量寿経には次のように述べられております。

941121.jpg①無窮の願力を現す無量光。
②光の届かないところがないという無辺光。
③何にもその光をさえぎることができない無礙光。
④比べる相手がない無対光。
⑤自在にてらす炎王光。
⑥貪欲を照らす清浄光。
⑦瞑り を照らす歓喜光。
⑧愚かさを照らし、因果の道理を知らせる智慧光。
⑨途切れることのない不断光。
⑩考えも及ばない難思光。
⑪とても言葉にできない無称光。
⑫太陽や月の光に勝る超日月光。

の十二光です。

阿弥陀佛は常にこのような光を発しておられ私たちはその恩恵を蒙って 「居りますがそのことを親鸞聖人は正信偈で(一切群生蒙光照) {生きとしい けるものはすべて阿弥陀仏の光に照 らされる} と詠んでおられるわけです。 親鸞聖人が救われたのはひとえにこの十二光のおかげであったそうですが私たちも同じでしょう。ところで仏は先祖に通じ親は一番身近な先祖ですから、親にも仏さまと同じ働きがあります。今、この世に生きている「親」はとても阿弥陀様の十二光にはかないませんがそのうち七個ぐらいの光りを発して子供を育てていると思います。親の七光りなんて、よく聴きますね。親の七光りとは仏の光りに他なりません。また七は七変化、七不思議などといいます。 親の七光りの七は多くのという意味だと捕らえてもいいのでないでしょうか?

私たちは父母の恩恵を受けて生きているのは確かです。その恩恵を光りにたとえて遍照の光明と摂取の光明の二つになるというような説明もあります。 私達の心の闇をも照らし、救いとってくださるありがたい仏心に感謝し、ご恩に感謝しながら生きて行きたいものです。

すでに親さまをなくされた方、ご先祖をお持ちの方、お仏壇を大切にお守りし ましょう。

親の健在な方は日ごろのお守りに感謝しましょう。

住職合掌

頭陀袋006 七光・十二光

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋008 ひとりぼっち

『一人ぼっちが好きだよと、、、、、』なんていう、流行歌の歌詞がありますが、 本当に一人ぼっちが好きな人が居るのでしょうか?一人ぼっち (ひとりぼっち)とは独り法師のことで今日では (肉親や仲間が居なくて孤独である)ことを指します。それからさらに恋人と別れた後の淋しい感情を表すのにも使われるようになってきたといえるでしょう。本来の(独り法師)とは サンガ(仲間)を離れて世の中を救って歩く法師を指しました。

法師とは法を説き善行を修め世の模範となって人を導く僧侶のことですね。

801404.png本来の独り法師は積極的にひとりとなるのですが、成り行きで独り法師となったら淋しいでしょう。この淋しさが強調されて一般に身寄りのない人、仲間のない人を「独りぼっち」とあらわすことになったと理解されます。

人はただ一人では生きられません。今は高齢化社会、少子化社会を迎え独りで暮らさざるを得ない人が多くなってきました。子供のない夫婦、配偶者に先立たれたり、結婚しないまま年齢を重ねた子供が、両親をなくしたりすると、その段階から一人ぼっちになってしまいますね。独りで暮らしていると万一病気になっても診てくれる家族が居ません。死んでも発見されないなど大変なことになっていたという例がたくさんあります。

これから先は社会福祉の充実が急務でしょう。一人ぼっち世帯が増加するのを防がなくてはいくら社会福祉を進めても実状を改善することができません。結婚して子供という子孫を残し、一方、親という先祖の世話をするという日本古来の美しい親子関係をぜひ見直してほしいものです。

夫婦の絆、親子の絆を大切にして家庭を成り立たせることが本当の一人ぼっちを避ける基本ではないでしょうか?

住職合掌

頭陀袋008 ひとりぼっち

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋009 本家・本郷・本国

何の前触れもなくSさんがお寺をたずねてきました。
「方丈さん、助けてください。私は自分の家に帰りたいのですが、誰も返してくれません。私の周りにはいつも四、五人の人が居て自由がありません。」というのでした。
Sさんは八十過ぎで、もちろん自分の家で暮らしています。以前聞いたご家族の話では少し認知症が進んで困っているとのことでしたが、ごく普通に話ができます。

彼が言うには「今住んでいるところは他人が建てた家で、こんなところより、本当の家に帰りたい。」とのことでした。今のSさんの家は彼の代で建て替えた家です。彼の頭の中では自分の生まれ育った家こそ本当の家で、この古い家がイメージされているようでした。
いや、この娑婆に生まれる以前に住んでいた本当の家かもしれません。

801670.png「迷いを翻して本家に還る」という仏教の言葉があります。一般には分家から見て分かれる前の家、一族の主となる家を本家、総本家などと申します。仏教用語としては「本来の居場所、つまり悟りの境地とか極楽浄土」を指します。すべてのものには耐用年数があり年を重ねると疲弊して機能が低下してまいります。疲れ果てたものは「本(もと)に帰ろうとします。還元しようとします。人も年齢を重ねると昔に帰ろうとします。生まれ故郷の家が懐かしくなりますし、親が懐かしく思い起こされ涙がとめどもなく流れることさえあります。

仏教では「本国」といえばつまり浄土のこと、本郷といえば本来の故郷、つまり覚りの世界のこと、そしてそこにこそ本来の本家があるとします。生まれ故郷のふるさとの家がさらにさかのぼり「生まれる前に居た仏国土」になったときそのときが本当の「帰家穏座」 (きかおんざ)のできる時かも知れません。

三仏会(さんぶつえ)

三仏会とは

①お釈迦様がなくなった日(二月十五日)涅槃会といいます

②お釈迦様が誕生された日(四月八日)降誕会といいます

③お釈迦様が悟りを開かれた日(十二月八日)成道会といいます

毎年、高山市仏教会は各お寺合同で、 降誕会(花祭り)の行事を計画します。

住職合掌

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平成24年 2019/02/01takenoko

頭陀袋010 自己に勝つ

213047.png人間は常に「いわれなき恐怖」におののいています。たとえば死に対する恐れ、財産を失うのではないかという恐れ、また、子供に裏切られるのでないかというおそれなどであります。

このような恐怖や苦しみに駆られると人間は世をはかなんで姿を隠したり放浪の旅に出たり山にこもってこの世の憂さを捨て去ろうとしたり、また、中には自分の肉体を苛め抜いて苦しみを忘れ去ろうとしたりします。 
また、そのほかにも人だまりの中にレジャーを求める人、美しい自然の中に自分をおいて我を忘れようと努める人、さらには亡き先祖のお墓に詣で(この脅えを救ってほしい。)と祈ったり、いっそのこと死んでしまおうかと死の世界にすべてをかけようとする人があります。

142916.pngそして、さらに神秘的な世界、幻想的な世界に身を任せて自分には不可能なことをかなえてもらおうとする人などいろいろありますが人間の恐怖とはそんなもので取り除かれて安らぎが得られるものではありません。恐れるのも自分であり、乗り越えるのも自分であります。己こそがよるべであることに気がつくべきです。自己の中にすぐった執着や愚かさから来るこの脅えを克服する以外に安穏はありません。

お釈迦様はこのことを(世に人々は言われなき恐怖に駆られてもろもろの山に森林に、園に、さては樹に、墓によりどころをもとめんとするが、これは安穏のよりどころにあらず)とおっしゃっています。それらは真の解決にはならないからです。大地を二本の足で踏みしめ自分の可能性を力いっぱい切り開いていくことです。不屈の努力を重ねがんばることです。つまり「自己に勝つこと」なのです。 お釈迦様は亡くなられてから二千五百年以上も経っていますがその教えは今も正しく生きています。

死を恐れ財を失われるのを恐れるよりも私たちは自分を失うことを恐れねばなりません。

住職合掌

頭陀袋010 自己に勝つ

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平成25年 2019/02/02takenoko

頭陀袋011 業(その1)

業とは人間のなす行為、振る舞いのことであります。
ふだん、この言葉はよく使います。たとえば(前世の宿業)とか(自業、自得)(業が深い)などのようです。この業には過去の業と、現在の業があります。過去の業は宿業といわれ身に覚えの無い業、人間の力ではどうにもできない業のことであります。
たとえば飛行機事故に出会うようなことです。つまり自分の力を超えたもの、予測のできない避けることのできない災難などを宿業といいます。
それにたいして現在の業は身・口・ 意の三業によって生ずるものであります。身業とは身体で行うもの行為であり口業とは口で行う行為、つまり口で言うことであります。また意業とは心で行う行為のことであります。 これらの行為が集まって未来の結果を生むのです。

801623.png業には善なるもの、悪なるもの、善悪どちらにも決められないものがあります。善因全果、悪因悪果という言葉があります。つまり善い行いをすれば善い結果を生み、悪い行為をすれば悪い結果を生 ずるということです。しかし現実の問題として必ずしもこのようにならない場合もあるようです。たとえば、あんなに悪いことばかりしているやつがどうして罰があたらないのか?どうしてあんなに幸せそうなんだろう?とか私は別に悪いことをしたわけでもないのにどうしてこんな不幸な目にあうのだろう。と、いったところです。

現実に世の中にはこのような矛盾したことが多いようです。それではこの業というものをどのように解釈したらよいのでしょうか?そのために因縁というものを考えねばなりません。いかなる結果にも必ず原因というものがあります。この原因には直接な原因と間接な原因というものがあります。いくら働いても楽にならないのは社会全体が不景気であったり生まれた家が貧乏で学校に行けなかったり、会社が倒産寸前だったり子供が多かったり親、兄弟の面倒を見なければならなかったり、直接本人の責任でないように見えるさまざまな原因があるからなのです。

つまり、業というものは自分自身の行為であっても消して他人の行為やその他の世の中の現象とは無関係ということはありえないということです。

住職合掌

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平成25年 2019/02/02takenoko

ブログ運営者

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檀信徒の皆さんに『一休さん・珍念さん・小僧さん…』様々な愛称で呼ばれております恩林寺徒弟、鳳雅禅士です。

住職との血縁関係はない在家出身ですが、恩林寺で僧侶となる仏縁を頂戴し、幼き頃からの夢を叶えることができました。

今は京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(黄檗宗本山)にて修行しながら大学に通わせて頂いておりますので、普段は恩林寺におりません。

年末年始やお盆には帰ってきます。その時に皆さんと笑顔で会える様に「一日一善」を心がけながら、日々精進していきます。

感謝・合掌。