人は本当に自分自身、主人公でいるかどうか?
考えてみると極めて疑わしい。
他人のちょっとした批判を気にして、その言葉に引っかかり、
何日も何日もこだわり続けている。
自分自身の主人公は他人になってしまい、本来の自己をどこかに置き忘れてしまっているのだ。
瑞巖和尚という坊さんは、毎日、自分自身に向かって、「おい。主人公。」と呼びかけ、自分自身で「はい。」と返事をし、自分の本当の自己をいつも覚まし続けていたという。
禅宗の無門関という本に次のような一節がある。
「惺惺着や、喏。他時異日、人の瞞を受くること莫れ、喏喏」
「はっきりと目を醒ましているか」「はい。」
「これから先も人に騙されないようにしなさい。」「はい、はい。」
人は真の主体性を持つことが何より大切だ。
社長は社長で、課長は課長で、店長は店長で、従業員は従業員で、私個人は私個人で、主人公しているだろうか。
今年は、世界を震撼させた疫病を前に私を失いかけていたのではなかったか。
私はどこにいるか?
頭?胸?肝?パチーン。と、警策が鳴る。
正宗寺玄関前の老松今日は、東堂様に問候(訪問)である。
飛騨の洞門(曹洞宗)この百年、次々と古仏を輩出された名門である。
玄関前の老松は高い梢の枝が思い切り雲まで伸びてゆこうという勢いだ。
雲は老松の梢の上を静かに流れてゆく。
「松老い雲閑かにして、曠然として自適す。」と臨済録にもある。
今、じっと老松の上の雲を仰ぐ。
人生にとってこの一瞬が一番いいように思われる。
何も心のわだかまるところはない。
すっかり空々寂々たる心もちだ。
歴代の古仏もこの松とともに生きてこられたのだろう。
開山 格翁門越和尚 住職 原田太石禅師 東堂 原田道一禅師
住職合掌